自然は帳尻を合わせる、少雨の年と多雨の年が交互に繰り返しやすい
自然はどこかで帳尻を合わせやすい、つまり少雨で大渇水
の次の年は好天が少なく雨ばかり、になりやすい。わかりや
すく典型例は1994年の少雨、大渇水の翌年が多雨を極め、日照
不足となって米ができず、翌年は米不足、タイ米騒動となった。
昨年は、2022年はとにかく来る日も来る日も晴ればかり、当然
、気温上昇、「地球温暖化」気候変動論派はここぞとばかり、
脱炭素をぶち上げる、車がBEV、電気自動車というのかバッテリ
ー車にしろと、でも自然はたいてい、帳尻を合わせてくれる、今
年はわりと春先から雨が多い、昨年は雨が恋しかった、あれほど
雨が恋しい年もなかったくらい、だから自然は次の年は配慮して
くれる、まあ、極端な少雨、多雨でなく毎年、平均してほしい気
はするが、自然は生き物である。
でも記憶に刻まれる長雨は1963年、昭和38年の長雨、5月初旬
から6月いっぱいだったか、まさに晴れ間はほぼなく、毎日、雨
ばかり、これで大影響を受けたのは主に西日本の農業、麦作であ
った。最近、「米作はやめて小麦を作れ」という政治家もいるが、
実は日本の気候は米作に向いている。熱帯の多雨地域が原産の米
は日本のモンスーン気候に向く、だが麦作は乾燥した気候が必要、
あまり高温も不都合だ、収穫期の多雨は致命的、日本は小麦の生
育に全く向いていない。1963年、西日本地域の麦作は100%全滅
したのである。
1963年、大麦は全滅した、腐った麦を焼却する農家

・・・・・あ、帳尻を合わせる、ですね。毎年平均的は理想だ
が、やはり少雨の翌年はしっかり雨を降らせてくれる自然はあり
難い気はする。毎年渇水では乾燥地域に転落してしまう、
台風が少ない年の次は次々と台風が襲来しやすい、絶対ではな
いが、自然はしょせん、人間の思惑を超えている。人間が「人為的
排出CO2!]で「気候変動」などというのは一種の精神的なバベルの
塔というべきだろう、思い上がりである。気候など、人間の力な
どの及ぶものではない。ただ自然破壊は出来るのが人間だ、水力
発電でダムを止めたら下流に砂が流れなくなって海岸が侵食され
る。黒部川を見たらいい。
今のところ大雨警報だ、明日朝までには上がりそう、また仕事の
スタートだ。
この記事へのコメント
昨日は大雨で、当地の排水ポンプ担当が今期から新人になりました。施設には情報機器が何もないから、家のパソコンで国土交通省の「川の防災情報」を見て水位とダムの状況を伝えています。