中井英夫『人外境通信』1976,美文の自己陶酔ではないのか

中井英夫、という作家は父親などが植物学の泰斗だという
が、どこかに「青色の花がないということは・・・・」など
という文章があった。この部分は多くの疑念を呼んだようだ。
「よりにもよって植物学の家系にある中井英夫が、実は青色
の花はいくらでもあることをなぜ知らないのか?」その時、
私は「中井英夫」という作家にちょっと注意しなければなら
ないかな、とも感じた。「中井」という名前が妙に「ヤワ」
なイメージを与える。
『人外境通信』自体は連作の短編集のようなものだが、実は
『幻想博物館』、『悪夢の骨牌』に続く、第三集である。奇妙
なタイトルには中井の決意と歎息が込められているようだ。
「人外」にんがい、と読むのだそうだが、「人外、それは私で
ある」という、
人外とは何か?作品中では「人外とはついにこの地上にふさ
わしくない、一個の生物とでも定義すれば、やや近いかもしれ
ない」という。「私」に自己規定である。疎外意識なのか、劣
等感なのか?
で連作短編集『人外境通信」には「薔薇の縛め」、「鏡に棲む
男」、「藍いろの夜」、「悪夢者」、「薔薇の戒め」などの十三
くらいだろうか、の短編が収められている。
「被衣」という短編の一節、その雰囲気を味わうと
「・・・それが病んだ薔薇の樹の所為か、茸の惑わしか、それ
とも森の魑魅(すだま)の誘いだったのか、ついに誰も知らない。
ともあれ、それまでは、クレモンの奥方ほど信心深くまた慈悲深
い方は、当節稀れであろうというのが専らの噂であった」
これがいかにも、中井英夫も語り口なのだ。この語り口にさほ
ど違和感なく乗せられたら、一気に読みとおせるという。それは
ボードレールのいわゆる「時間の脅迫」から逃れられるという。
乗る気がない、乗せられないと、その話、譚自体を拒絶するしか
ない。
でも話、譚としては非常に不自然作り過ぎの感は否めない。
中井英夫の作品にはよく狂院という言葉が出る。精神病院、脳
病院と思われるが、狂院という言葉を中井は好んだ。そりゃ、中
井の世界にはお似合いということだろう。『人外境通信」でも、
いたるところに狂院があると思える。「扉の彼方に」は、直接には
、看守の形を取る理性の暴力で狂院の一室に閉じ込められた男の扉
への恐怖心をテーマとしたもので、悲哀な内容がスピーディーに語
られる。
実は歌人でもあったのか、塚本邦雄も発掘したとか、選者だった
という中井は詩人である。散文の役目のなにか伝達の手段ということ
に堪えられなくなって、詩文のように文章を伝達での手段ではなく
、自己目的化する、この思いが高揚と、抑制の繰り返しというパター
んをくぐり抜けた時、大きな効果を上げる。コレは上滑りだと無内容
な美文となる。美文に作者が自己陶酔するほど白々しいものはない。
久生十蘭に傾倒したという中井英夫だ、」久生十蘭的な語りを身に
杖鏡とした。作りすぎるほど作ったものをと抑制を効かせた作品を
交互にと考えたのかもしれない。
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