墓とは、どこまでも生きている人のためのものだ。それには自分も含まれる。

死んだらどうなる、・・・とはいうが、私はそれを無、と
云うのは「過大評価」だと思えてならない。「無」は「有」
に対しての言葉である。「無とは何か」というと哲学上の問
題ということだろうが、哲学などどうでもよくて、「無」と
いう以上は「無」と呼ばれるものが「有る」わけである。「
有」に対しての「無」である。どうでもいいような話に思え
ないこともないが、ここは重要である。「生」が終われば「
無でさえない」、あらゆる設定、意味付け自体が消えてしま
う、「それは~だ」という説明をされるべき実体は全く存在
しない、だから私は「あらゆる設定が消失する」という表現
を愛好している。あらゆる「設定」がない、とは時間も、空
間もあらゆる概念も何もない、だから生が終われば死後も生
前も同じこと、となる。だから「無」などという説明もでき
ない、・・・・本当にむなしいことだが。
だから生前にいかに悪の限りを尽くそうとも、「死ぬこと
によって尊い存在=仏、になる」という日本仏教は要は仏教
を騙った葬祭業という証明にしかならない。「死んだら仏弟
子」などという馬鹿げたことを生活のためとは云え、仏教の
金科玉条とする日本の仏教寺院は石材店のパートナーと言う
に過ぎない。・・・生きていてこその仏である。当然である。
つまり死ねば無でさえない、骨壷に一部拾った骨とその
上に墓石、石塔を建てようが無機物の上に石が乗っかって
いるだけである。死んだら何もない、・・・・・だか墓に
は意義がある。それを弔い、故人を慕う人がいるかどうか、
である。別に親族でなくとも良い、親族でなくとも故人を
慕う、弔う人がいるならその墓は意味がある。逆に生前、悪
をなして子供にさえ愛想を尽かされて慕うどころか呪いを
浴びせられるような故人では、墓などそもそも意味はない。
単に死者がこの世に、地上の一部を占有するのは許されない。
だが墓が許されるケースとは、故人を追悼する生きている人
があればこそである。それが全くいなくなったら、その時は
墓は撤去し、遺骨も合祀が散骨すべきであろう。生きている
人がいかに墓でも追悼する気持ちが一切ないなら、それはも
はや墓ではない。無機物の上に石があるだけの無意味なもの
だ。
母方の祖父母の墓は最後まで卒塔婆でしかなかった、なぜ
か長男の遺骨もその後入ったが、寺院が勝手に後継とした親
族はナシのつぶて、寺院も墓を撤去して別の人に売りたい、と
希望を云ったとか、で墓は撤去されたと聞く、遺骨はどうなっ
たか知らない。二年前亡くなった母!その夫婦墓だが、私は
それを墓とは見なしていない。だからもうあの寺院に行くこ
ともない。あれほど天文学的な悪をなした、私になした親を
追悼する気などさらさらないからである。悪の限りの人間が
、「死んで尊い存在」になるはずはない、当たり前である。
墓は生きている人のためにある。追慕する生存する人がいな
くなればもうそれは墓ではない。
同時に「生きている」は「自分」も含まれる。生前墓の意義
は絶対に重要である。生きているうちに自分の墓を建てるのは
価値がある。
この記事へのコメント
死亡診断書があれば、葬儀屋に連絡して無宗教で葬儀をしてもらえ。坊主にやる費用はかからない。