山本健吉『古典と現代文学』講談社文芸文庫、教養をひけらかしてヤブヘビの箇所も少なくない

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 「日本文学の様式の交替の上で、頂点をなす作品と作家」
として山本健吉さんが取り上げているのが人麻呂を中心と
sる万葉集の作家群であり、伊勢物語、源氏物語、新古今
和歌集、能、芭蕉、近松門左衛門、井原西鶴、以上の八項
目である。読みやすいものではなく、真剣に立ち向かわな
いと理解など出来る本ではないと思う。

 「あとがき」で山本さんは日本の古典文学を「現代文学に
関与している者の目で見据えたい」と思っていたそうだ。そ
の意味で選ばれた八つのテーマは、ただ漫然と知名度が高い
古典だから、というだけではないのだろう。

 「人麻呂にあっても、世阿弥にあっても、芭蕉にあっても
、このように上からの牽引力と下からの牽引力が同時に働き
かけて来るような地点に開花している」

 と山本さんはいう。「下からの牽引力」とは、たえず山本
さんが強調している、いわば文学の自覚が超個性的に、ある
いは個から、幽玄の美意識的なものへの純化の過程、同じよ
うに芭蕉の連句的なものから発句を独立させた俳句的なもの
の完成まで、いずれも山本さんがいう通りの交替の焦点に開
花していることは事実と思え、選ばれた他のテーマについて
もそれが妥当するという。

 この本は古典の代表的存在の単に評釈ではないから、本当
に読み解くのは難しい。評釈ではなく、全体を通じての明確
なコンセプトがある、と云うべきだがコンセプトで一刀両断
的に割り切りすぎた解釈をあるように思える。

 でそのコンセプト、だがそれには最初から二つのワクが提
示されているようだ。なんとも言葉にしにくいが、詩歌発想
の生活共同体的意識。というと意味不明みたいだが、超個性
的動機を重視して、そこに芸術様式のエネルギー源の見出し、
ロマン的な個性の放縦をむしろ詩歌の伝統の堕落と見る伝統
主義、古典主義。もう一つは、古典の中に個人感情よりも、
共同体的意識の表出の方を大きくむ見る民俗学的な解釈、と
いうワク、ワクというのか、思考の基準である。

 こう書くと難しいようだが、基本のワク、今後は思考基準
ということにするが、山本さんはイギリス詩人エリオットら
の、いわゆる現代古典派の態度からその方法論を学んでいる
という推測が成り立つ。さらに第二の思考基準は、折口信夫
一派の民俗学的古典解釈の結果をそのまま取り入れている。

 したがってこの本のコンセプトを形成する2つの思考基準、
において山本さんは山本さん自身の探究、研究からこれらの
見解に到達したというより、すでにある既存の方法論の成果
をそのまま、無批判で導入し、それを極めてジャーナリスト
的なスタンスでまとめ上げた、という印象は強い。

 ロマン的個性情熱を評価しないエリオットらの現代古典派
の基本的態度は、一つのスタンスとして評価できるのかもし
れないが、要は独断でしかない。しかもその独断を支えてい
るのもは、偏狭な文学観ではなく、より大きな世界観である
と思われる。この世界観無くしては単なる独断となってしま
う。民俗学派の古典解釈もそレと同じだ。

 折口信夫の人麻呂をもって柿本一族の巡遊怜人とする説の
ように、それはそれ以前の古典解釈に新たな光を投じたもの
だろうが、だからといってそれで人麻呂の作品の解釈はあく
まで個人的感慨を託したものとしか言いようがなく、いった
い全体、はたしてどこまでホメーロス的な超個性発想である
かということになると、概念の暴走めく。いかに山本さんに
とって折口信夫が師でも、そのまま無批判な肯定はいかがな
ものか、

 つまるところ、山本さんは現代古典派の態度を無批判に
受け入れて、次にその思考基準には極めて都合のいい古典解
釈として、民族学派にほとんどを全面的に採択したわけである。
だが、その二つの思考基準の取り合わせが巧妙であり、一種の
ジャーナリスト的魅力は鮮やかと云えば鮮やかである。それゆ
えに都合のよすぎる、割り切りが目立つ。

 ジャーナリズム的には興味ある労作だった?この方法論を
そのまま妥当なものとして肯定出来るとは思いにくい。また
教養に満ち溢れているのはわかるが、アクセサリー的知識を
ひけらかす部分が多く、それが間違っていたてやぶ蛇のような
箇所さえある。隠者文学を説いて「言わばワウトロウの文学」
などと書くのはちょっとひどい。

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