沢木耕太郎『テロルの決算』1978,テロリスト山口二矢と暗殺された浅沼稲次郎を丹念に描くが、肝心な点が抜け落ちている

かなり知られている本であるが、現在は刊行されておらず、
Kindleで読むしかない、もちろん古書もある。刊行は1978年、
著者の沢木耕太郎は1947年、まさに団塊の世代、競争の激し
い年代だった。横浜国立大経済から富士銀就職だが、初日退
職した。漫画家の園山俊二さんも初日、昼休みからいなくな
り、退職、やはりサラリーマンの憂鬱さは格別である。そう
感じない人もいるかもしれないが。でも本当によく事実を調
べて書いている。好著であるが、重要な点が抜けていると感
じた。山口二矢、浅沼稲次郎、二人に焦点を当てている。山
口だけではない。
私が思うに山口二矢、まず「二矢」という変わった名前だ。
なぜ「二矢」を「おとや」と呼ぶのか。父親は自衛隊員、自
衛隊のクーデター計画「三矢作戦」があった、何かうすうす
関連を感じる。「三矢」作戦は「三ツ矢サイダー」から取った
という説もあるが、疑わしい。それと非常に単独、独立的な人
間であり、高校時代から「右翼野郎」と同級生からは呼ばれて
いた。この単独行動性が強いことは別に愛国党に教唆されての
行動出ないことを意味する。
さて、社会党委員長の浅沼稲次郎の暗殺事件は戦後史の大
事件である。あの1960年は安保騒動で日本に革命が起きるの
では、とさえ外国人は思ったほどであった。それも過ぎての
10月、日比谷公会堂での三党党首の演説会、池田勇人、浅沼、
西尾末広の三名である。
庶民的で人気があった浅沼稲次郎が戦後教育を受けたはずの
少年に暗殺された、まさに破天荒である。安倍元首相暗殺どこ
ろではなかった。この右翼のテロに関わらず、社会党は事件直
後の総選挙で全く議席を伸ばせなかった。自民党は安泰だった。
中選挙区制の時代だ。以後、社会党は長期低落の道を歩む。
拘置中に壁に「七生報国」と何かで書いて自決した山口二矢
は右翼から神のような崇拝を受けることになった。今なお、右翼
勢力は衰えず、今日に至る。浅沼暗殺事件の意味は大きかった。
事件について大江健三郎が作品wを書いて右翼の反発を招いた。
以後、浅沼暗殺事件の深い考察はなされなかった。だが1978年の
30歳ほどの沢木耕太郎が作品を書いた。実によく調べ上げている。
これまで知られていなかったような事実も明らかにされている。
興味深い内容も数多く記されている。事件直後、この暗殺を
聞いた右翼団体「防共挺身隊」(つまみ枝豆も所属していた)の
幹部が即座に「実行犯は山口二矢以外にない」直感したという
事実である。右翼団体の世界では山口二矢はすでにテロリスト
として知れ渡っていたということである。
17歳でテロリストとなって自殺した山口二矢と、61歳の社会
主義者の実は屈折した行動の軌跡が明らかにされている。著者
はこの二人が暗殺、被暗殺というかたちで交錯する「その一瞬を
描きたい」一心だったという。だがよくぞ、というほど丹念その
行動を調べたものだ。
主役は二人、山口二矢と浅沼稲次郎、著者の視線は複雑で長い
人生を歩んでいた浅沼において特に綿密である。何か豪放磊落な
太っ腹な人間というイメージだった浅沼稲次郎、その裏にある、
知られざる暗さ、庶子として生まれ、運動の大先輩、麻生久に傾
倒し、軍部ファシズムとの協力路線を戦前にとったこと。そうし
た思想的混乱から二度も精神異常をきたしたこと、も明らかにし
ている。
浅沼委員長といいうから、ずっと委員長だったと錯覚するが、
実際は万年書記長と言われ、書記長時代に訪中し、その発言が
「アメリカ帝国主義は日中両人民の敵」という演説、これは中
国への配慮という動機だったはずだが、この言葉は世界に鳴り
響き、その後、党内左派の支持を受けて委員長に就任する。自己
の戦争協力への贖罪意識、中国での歓待の感激、「生涯で浅沼の
発した最も美しい言葉だった」と著者は述べている。
だがその言葉を売国と受け取った山口二矢、愛国党は親米を旗
印にしていた。命令はしてないが。山口の父親像も、赤尾敏総裁
もよく調べられて描かれていると思う。
しかし、肝心な点が抜け落ちてないか、
右翼というものが支配権力によって支えられている、体制の、
いわば走狗であった事実だ。安保騒動時に右翼を自民党がいかに
利用したかを考えればいい。その政治社会構造の視点が欠けてい
るというしかない。


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