怪童、中西太さん死去、終生、持ち続けた故郷の高松への愛着、早すぎた監督兼任が惜しまれる、

np_file_228359-870x489.jpeg
 プロ野球で怪童、いや、高校野球時代から云われていたのか
どうか、怪童と言われた最初、元祖怪童は中西太さん、二代目
は浪商の剛腕、尾崎行雄投手、である。ことほどさように怪童
の名をほしいままとした中西太、無論、いつまでも怪「童」で
はなかったが。・・・・・・

 ピッチャーライナーと思ったら内野手の頭を超え、それが外
野へのライナーに、さらに外野手の頭を超えてスタンドへ、こ
れも中西さんの恐るべきパワーを言い表す逸話だ、1952年、昭
和27年、西鉄ライオンズ入団、この経緯はよく語られる通りで
ある。早稲田進学という夢が泡と消え、さらに高校からいきな
りプロに入るという不安絶望で中西さんは号泣した母親は行商、
貧しかった、だが三原さんが学費は見る、早稲田進学、それか
ら西鉄へ入れ、というプランが兄が毎日オリオンズに抱き込ま
れるというハプニングでおじゃんになって、一足飛びのプロ入
り、中西さん、これは本当に辛かったな。なお甲子園には三回
出場、二回、準決勝で敗退、これは痛恨だった。なお岡山東商
の秋山、土井のバッテリー、秋山があかってしまって中西さん
に滅多打ちされた。

 1952年入団から大車輪の活躍、1956年から1958年、昭和31年
から昭和33年まで西鉄ライオンズ、日本シリーズ三連覇、いまで
も語り草になる日本プロ野球史の伝説だ、中西さんの貢献も大き
かったが1958年は稲尾投手の超人的活躍、今年のWBCでどこかの
日本人選手を「神様、仏様、~様」とが云ったアナウンサーがいた
そうだが、本当の神様仏様を知らないのだろう。むろん、稲尾和久
だが、平和台球場の西鉄ベンチの上の屋根では西鉄ファンが本当に
稲尾に手を合わせ、拝んでいたのである。

 打棒で活躍、超パワーを見せていた中西さんだったが、下火に
なるのは早かった、といえる。1959年、負傷し、成績は低迷した
が1961年に持ち直し、だが高卒後の全盛期の勢いは消えていた。

 1962年、28歳で監督兼任、これは選手としての中西太のある意
味、半ば終焉を告げるものだった。気が向けばピンチヒッター、
次打席ボックスでケツをフリフリスウィングする中西太さんの姿
にみな熱狂した、が、選手としてのフル出場は早々と消えてしま
った。そもそも監督に向いたタイプではなかった。

 中西さんが監督として東映から取ってきた投手の永易、これが
西鉄黒い霧事件を生む発端となった。無実の池永まで「永久追放」
という痛手、中西さんは福岡を離れた。以後は多くのチームで始動
、時には監督、ただ監督としては非情ささを欠いていた。監督には
不向き、だがバッティングの指導においては達人だった。いちいち
例示しなくてもいい、というのか例示が困難なほど多数にのぼる発
掘、技術向上の実績である。

 三原脩監督の娘と結婚、、東京に定住、と言いたいがコーチは
単身赴任だった。

 もう30年ほど前かNHKの深夜のラジオ放送(深夜便ではない)、
中西さんの経歴をざっと紹介、インタビュー、印象深い言葉があっ
た。
 
 私は中西さんのこの言葉は残しておきたいと思う。

 「私は母親がなくなれば高松は遠くなると思っていました、でも
逆ですね、孫たちに『おばあちゃんのお墓参りに行こうか』という
その瞬間が、・・・・・・いいですね」


 終生、故郷の高松への愛着を忘れることはなかった。

この記事へのコメント