丸谷才一『横しぐれ』講談社文芸文庫、山頭火に絡めた趣向が巧みでとても知的、佳作である

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 これは1975年、講談社から出た中編、短編の四作品を収録
した一冊である。・・・・・丸谷才一さんの趣向、芸術的な、
また知的な趣向が凝結したような作品が「横しぐれ」、奇妙な
タイトルである。他の三作品もあるが、表題作の「横しぐれ」
がいい、よく知られた放浪の俳人、山頭火の奇人的な一面を、
まさに鋭く、同時に複雑に立体的に捉えているが、本当の価値
は。その人物像をあぶり出すために何重にも、幾重にも仕掛け
られた小説技巧上の趣向の面白さだと思ってしまう。よくぞ、
思いついたものだ、この趣向を、ほんとに自分で考えたの?と
も云いたくなるようなものだ。

 主人公の「わたし」は二十年間に死んだ父親から、ふと戦前、
松山に遊んだ時、道後の茶店で出会った、愉快な坊主の話を聞
いたことがあった。みすぼらしい身なりの乞食坊主だが、やた
ら話が面白く話題も豊富、つられて聞いているうちに、酒を散
々飲まれてしまった。・・・・・まあ、他愛もない話だが、た
た、その時、その乞食坊主が妙に「横しぐれ」という一語に感
歎し、不意に雨の中を外に走って出ていった、という点が印象
に残った、・・・・・という。

 で、「私」作者は英文学専攻だったが、ここでは国文学徒と
なってが、ふと数年経って山頭火の句集を開いてみたら、時雨
についての句が多いことにきづく。そこで略歴、年譜を見てみ
ると父の話当時、山頭火は松山にいたようだ。

 放浪、酒好き、乞食坊主、といった見た目も父の話と共通して
いる。もし、乳があの時出会った乞食坊主がやはり山頭火だった
ら、どうも山頭火に違いないように思えてならない。・・・・
ここから「わたし」の推理が始まるのだ。発見したり、裏切られ
たりのその推理の彼方に、遠く山頭火の姿が幻ように浮かぶ。

 同時に、「横しぐれ」の一語を起点とし、時雨に触れる和歌や
俳句の日本的感受性の世界に入っていく。そうしたら「しぐれ」
とは「死暮れ」という意味も込められているのではないか、と
語呂合わせを考えたり、急速に死の世界が現れてきた。だから
実は死を求め、死に憧れていた山頭火のイメージが定着していく。
推理にして知的な面白さだ。半ば推理小説といえる知的な遊びの
ようでもある謎解きと云うより、イメージの構築なのだろうか。
知的な論理の構築である。

 佳作の所以は作者の率直さ、単純さと知的な趣向が見事にバラ
ンスしているというべきだろう。趣向が沈潜し、日本的な叙情、
情趣の空間を確かに構築できている。丸谷才一、随一の佳作かも
という評価があるというが、それも頷けると思う。

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