中沢けい『水平線上にて』1985,この乾いた感性は女流文学では稀有
中沢けいさん、さんが「ひらかな」で、「さん」をつける
と、平仮名が連続してしまう、でも女史という言葉は最近、
あまり使わないが、正直、女史という言葉をもっと復活すべ
きと思っている。男性の「氏」に対する「女史」は非常に
便利なのだが、・・・・・・1959年の生まれ、私よりはちょ
っとお若い、若い世代だが、若すぎる世代でもない。大学に
行かれたときはもう大学紛争など微塵もなかった世代だ。皆
無でもないが。明治大学かな、まだかなりまえ、「彷書月刊」
にエッセイを寄稿されていたのを読んだのが最初、神田の大
学街の雰囲気が漂う、そればかりでもないが。作品は、その
中に一部自ら、載せて折られた。自ら恋人に「コンドーム」
を差し出す、そこで文庫本で読んだ。なんとも文体が乾いて
いる、感性がドライだ、だから従来のねっとり文体の女流文
学的ではない。女流文学と云うとすぐ「源氏物語」とか、その
ような女流文学を拒否されているイメージだった。女であるこ
との意識過剰が従来の女流文学なら、女流文学をさっさと辞退
している趣と感じた。万事につけてドライなイメージである。
法政の教授をされておられる、他愛無いがFacebookの「知り合
いかも」に中沢さん、がリストアップされていたから思い切っ
てリクエスとさせていただいたら、30分くらいで承諾していた
だいた、この辺も実に、・・・・さっぱりして心が広い、女性
として稀有な感性と感じたしだい。
さて「水平線上にて」、これは青春小説だろう。また成長
物語かもしれない。ただもったいぶって分析は意味をなさない
ように思える。高校一年からその数年ほどの女性の性の世界
が描かれている。彼女は高一の時、高三の男子からキスした
いと頼まれて、キスに応じる。そのときの感性のときめきを
自分から確かめたいと、コンドームを掌に置いて、今度は実
際にセックスを迫っていく。もう一度、確かめるため、男子
生徒を家に泊める。でも結果は傷ついたようだ。その理由は
「結婚は論外で、恋愛というか飾りのかけらさえ、つけたく
なかったのに」、男がむしろ「欲求だけで女と交わるのは悪
いことだとだし恥ずかしいとと思っているに違いない」から
であるという。
確かにそれまでの女性文学にはなかった異次元な逆転の
発想、世界である。少女文学じゃないか、というにせよ、あ
まりに文学の領域に拡大、深化している。やはり中沢さん、
くらいの世代から新世代というべきなのだろうか。登場は
まず皆、善良と思える男女だ。その善良さがどうも、女には
お気に召さないのだ。
「一度や二度、かかわったくらいで、汚れたの傷ついたの
と騒ぐ女と大事な女は大切にするって言う男は、私には両方
とも薄汚く思えてならない」
どう見てもそれまでの女性文学にはなかった、精神性、感
受性、の世界だ。
彼女の友達が中絶する。男が付き添っていると女はこう言
う
「それで私に何かをしてくれたつもりでいたら、大間違い
よ。立ち向かうものがなくて、感情だけが過剰な人間がそばに
いるって、どんな負担になるのか分かる?」
ともあれ、このような若い女性の性の世界が描かれる。しか
し作品として、そのコンセプトを考えると長すぎる気がする。
ちょっと付き合えない長さかもしれない。既成の観念、モラル
恋愛も性も結婚も余計なもの、それを一気に洗い流したい、そ
レは根底に、男がこれまで女に対して考えたかってな思い込み
は認めないぞ、という気概であろうか。ともあれなかざわ文学
のスタートであった。記念碑的である。
20代なかばの中沢けい、さん
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