花田清輝『俳優修業』講談社文芸文庫、日本の知の巨人が虚実皮膜論を評論に適用する
知の巨人、というべきか、花田清輝さんは映画、舞台にも
深く関わって映画評論はよく知られている。実は1964年に講
談社から刊行された。花田さんは1909~1974で65歳で亡くな
ったが、1991年に講談社文芸文庫から刊行されている。それ
ほどの内容と評価されいるわけである。
「俳優修業」というから、そのノウハウかと思ってしまうが
全然違う。いきなり東洲斎写楽の役者絵から、その「斎藤十郎
兵衛説」を蹴散らしている。
第一章「芝居絵」:『浮世絵類考』の著者が、写楽斎、俗称
、斎藤十郎兵衛について「これは歌舞伎役者の似顔絵を写せし
が、あまりに真を描かんとて、・・・一両年にて止む」と解説
しているのは周知の通りであるが、わたしは、これこそ解説さ
れている当の画家から「シャラクサイ」と一言のもおtに片付
けられそうな、・・・・芝居を何たるかをわきまえない、凡庸
な解説の見本である。『難波土産』に「芸というものは、実と
虚との皮膜の間にあるもの也、・・・・」・・あるがままに描
いて役者の怒りをかって没落ではなく、そんナタ動的な原因で
なく、近松門左衛門が喝破したように、実と虚との皮膜の間に
ある自らの芸を一両年で堕し尽くしたから、さっさと芝居絵の
世界から足を洗った、・・・・・・
とまあ、こういうふうに始まっている。この本は虚実をとり
まぜて、江戸末期の言わば大根役者の芸談を紹介しながら、
芝居考証家という表向きの看板の後ろに身を隠した花田さん
が、精神の俳優としての芸を虚実皮膜でちらちらのぞかせる、と
いう洒落た本だろう。
虚実皮膜論の実践評論とも言える。花田さんは江戸末期から
明治初期に生きたという、沢村淀五郎という「たぐい稀な大根役
者」の芸談集、、「四徳斎雑記」なる胡散臭い代物を取り出し、
これによって近松門左衛門の「難波土産」にいう「「芸というも
のは、実と虚との皮膜・・・・・、虚にして虚にあらず。実にし
て実にあらず、この間に慰みが」という芝居の奥義を探ろうとし
ている。つまるところ、歌舞伎芝居の世界に独特なる所以は、
児戯に類するお粗末で低級な脚本で豪華絢爛たる舞台術を作り上
げたところにある。
沢村淀五郎は、とんぼ返り専門の大部屋から出発、大塩の乱の
天保八年、大阪般若寺の村芝居の振付を金十両で請負って、村芝
居の化け猫が大塩の乱の闘士であったというどんでん返し、文明
開化の明治七年に「岸柳朧人影」に死神役で出演しているという。
その障害は吹けば飛ぶよなだが、芝居者である以上は、当然に、
東洲斎写楽、遠山の金さん、大塩平八郎、守田勘弥、福地桜痴と
いう歴史の千両役者と交錯する。その交差を巧みに捉え、役者一
流の芸術論、政治論、とくにインテリ批判を例の実の皮を持って
虚を隠し、隠すことで現れるという芸を駆使し、これがコンセプ
トだろう。
要は批評の真髄はかくし、やつす、というつつましい日本の美的
伝統に置かれていることは注目に値する、、その芸は洒脱である。
だが檜舞台の芸ではなく、当時の進歩的ンテリア相手の座敷芸のよう
にも見える。語り口はいい、だがやはり侘びしくもある。
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