石川淳『鳴神』1954年、創作短編集。偉さとバカさが背中合わせ

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 さて、1954年の石川淳の創作短編集『鳴神』である、最初、
鳴滝塾から「鳴滝」かなと思ってしまったが、「鳴神」である。
端的に言うならば、生きるとはなにか、の探求と云えば聞こえ
いいが、ああでもない、こうでもないという魂の苦しみ悶えの
七転八倒の記録だろう。古書でしか入手できないが、短編は多
くの本に個個別別に収録されていると思う。『滝のうぐいす』
に始まり、『鳴神』に至る11章である。作品の順序は年代順で、
『鳴神』は一番新しいことにあんる。それでも昭和29年1月なの
である。

 では表題作の『鳴神』であるが、と概略を述べてみたいが、ど
うもこの石川淳という作家の作品は、あらすじとか、概略とどう
も結びつかない。基本的に無理がある。石川淳の偉さと愚劣さ、
バカさ加減が背中合わせであるというべきかなぁ。人生に乗せら
れないぞ、逆に人生をコントロールしたい、というのか健気な車
の運転手が主人公らしい。人間を全てたぶらかし、酔生夢死させ
てやろう、とたくらむ一隊と、これに反逆して生きる人間、生き
させて頂くではなく、自分自身が生きる、という一派との雷雨の
夜の乱闘に巻き込まれ、みどり色の彼方に消えいてゆく「生きる」
側の総大将のヨモなる人物の後ろ姿を眺めながら、新しい自転車
に飛び乗る、というような筋かも知れず、これだけでは意味不明
だろうか。なんおことやら聞いただけではわからない、カフカmの
『城』は幻想的であるが、一応は概略がある。Kという男がある城
に入ろうとするが、一向に入れない、あれこれ手続記を要求する。
その城は恐るべき官僚制度の空間であった、・・・・・というえば
実存的ですごいと感じるかもしれぬが、石川淳のこの奇妙な話を聞
いては実存的もなにもない気がする。

 つまるところ石川淳にあっては、幻想性がその作品を詩におし
あげるほど強力でもなく、散文作品というには強すぎるようだ。こ
うして読者は戸惑う、理解不能だが、わからないとも云いたくない
から「石川淳は~」と聞きかじって言い放つ。それでいいのか?

 もしや石川淳は萩原朔太郎にならんとして都会風な戯作車になり
すぎ、戯作者と云うには真剣すぎる。

 石川淳の気迫の激しさは類を見ないという。作品がそうだ。既成
作家など無視していた。理解され用というサービス精神がなかった。
それが普段は文学に疎い人たちが読むと、奇妙に目からウロコとなる
作品かもしれない。読む方も心すべきだろう、

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