『帝銀死刑囚 獄中記』平沢貞通、1959,この血の叫びにウソはないはずだ、何が冤罪を生んだ?


 帝銀事件の犯人とは要はあの日、昭和23年、1948年1月26日
、午後三時前後、暗い曇天の日、帝国銀行椎名町支店に現れて
言葉巧みに、所作巧みに毒物を工員に飲ませ、結果として12名
を死に追いやった、その人物、である。平沢が犯人だと云うな
ら、帝銀椎名町支店にあらあれた、見事な演出を極めた人物が
平沢だということだが、・・・・・あまりにかけ離れている。

 それだけの心憎いほどの見事な堂々たる演技を行った多数の
死者を出して、たかが知れた金と小切手しか奪わなかった。大
金が何ら苦労せず見つかる場所にあったのに、探したようにも
見えない。金に執着はなかった、というほかないが、奇怪にも
その後、というより翌日に、リスクを犯し、1月27日、安田銀行
板橋支店に小切手の換金に来て、まんまと換金している。さし
たる金額でもない。また二つの類似の未遂事件がある。だが手際
のよさ、弁舌、巧妙さでおよし異次元に下手であった。安田銀行
荏原支店、三菱銀行中井支店での稚拙な未遂である。中井支店は
帝銀事件の僅か一週間前でしかない。

 ここから何が分かるか、かなりこれだけで分かる、が全てを
ぶち壊したのは警視庁刑事の平塚八兵衛の単独犯説、それは平沢
貞通以外にないという思い込みであった。平塚は平沢に取り調べ
で呵責ない暴力ぅお振るった。平塚は3億円事件でも単独犯説を
強硬に主張、無関係な無実の人だけを槍玉に上Gげる失態をおか
し、迷宮入りとなった。この異常なまでの「単独犯説」で何も
見えなくなってしまった。実際は複数犯で込み入った背景がある
にもかかわらず、単独犯と正しく単純化し、労力の低減で収穫を
、というのだろうか。一旦、単独犯で行こうとなったら無理が通
って道理が引っ込むわけである。

 帝銀事件の生き残り、村田正子は現れた犯人は平沢とは絶対に
別人だと断言し、その主張は変わることはなかった。

 帝銀事件解明の本は多いが私が最も信頼できると思ったのは、
和多田進「ドキュメント帝銀事件」で歯科医、奥山庄助、を帝銀
事件の真犯人と断定している、ただし歯科医を犯人としながら
、やはり著者も歯科医学の知識が欠けているので、誤解による記
述もある。

 ともあれ「獄中手記」を読むとその冤罪の叫びは全く盤石の強
さである。奥山庄助と平沢はテンペラ画の仲間である。

 180頁「帝銀事件の真犯人の君に」昭和28年

 帝銀椎名町支店で十数名の人々を殺害した「私によく似たときく」
君に申し上げる。君が私の裁判の初めの法廷に来ていたと私が知っ
ていると云ったら、君は驚くに違いない。「御仏rの御告げ」に頭を
お下げなさい。君はその公判廷にあのあふれた傍聴者の中に、・・・

 とまあ、その手記は結構、膨大である。冤罪の主張は揺るがない。

 しかし平沢は無関係かと云うと、そうでもない。従犯だったはずだ。
あの帝銀事件で奪われたとほぼ同額のお金、その出処を正木弁護士に
も頑として云わず、怒った正木弁護士は弁護を断った。なぜか、であ
る。「実は奥山庄助と」の真相がどうしても云えなかった。平沢は単
に従犯、軽率に「ちょっと詐欺に加担」のつもりが、奥山庄助があん
な大殺人事件を起こし、貰った金を持って小樽に逃げ帰った。その平
沢の単独犯と決めつけた警視庁の平塚八兵衛が真実を葬り去った。

 もうこの本も古書でも入手は困難のはず、大切に読んでいきたい。

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