『裸木』高井有一、「内向の世代」の特質が現れている中編作品
私も実は最近になって知った言葉「内向の世代」、1971年
に小田切秀雄が初めて使ったとされる。1930年代に生まれて
、1965年から1974年にかけて台頭した作家たち、というのだ。
それまでの政治的風潮に愛想をつかした自らの内部にこもる
文学的特性、といいっていいのやら。古井由吉、後藤明生、小
川国夫、高井有一、坂上弘、大庭みな子、富岡多恵子、柏原兵
三など、・・・・・だという。この文学的表現がどこまで妥当
なのか、わからないが、無責任な言い方だが、どことなく分か
る気がする。その「機関誌」で季刊誌の「文体」があるという。
その「内向の世代」の代表的作家、高井有一の創作集「裸木」
1979年、四篇が収録されていて表題作の「裸木」は中編である。
読めばその透明化ある「文体」に、明晰な文章に納得できるだろ
う。テーマも多彩である。共同通信の記者だった経験からか、実
際の事件にヒントを取ったような作品もある。
「裸木」は事件性はない。いたって淡々と、さりげない人間模
様を描いているようだ。
・・・「私」と長広三枝子との再会は偶然ではなかった。熊本
の若菜篤史からの年賀状で、私は三枝子が上京し、代々木のクリ
ニックに勤めていると知っていた。そこで「私」は三枝子に電話
して久しぶりに彼女にあった。初めて三枝子に逢って十数年が経
っていた。当時「私」は大学を出て教科書会社に勤務し、若菜は
留年して大学にまだいた。谷中の若菜のアパートを訪ねると、三
枝子がいて二人で朝飯を食っていた。二人は小料理屋で知り合っ
て、間もなくそういう同棲関係になった。三枝子は看護婦だった。
三人で会うことも多くなって、若菜を中心とした三人のつながり
が出来ていった。大学を出た若菜は郷里の熊本の高校教師となっ
た。三枝子もしばらくして熊本に向かった。若菜と結婚したよう
だった。「私」も熊本に行って三人で阿蘇山に遊んだこともある。
だが三枝子は病院の医師と関係ができ、また東京に戻ってきた。
三枝子と再会した「wあたし」は二人で箱根に行ったが何事も起
こらなかった。
これはさり気なくも、いささか傷みもある人間模様の叙述である。
過去と現在と交錯させ、内面の寂寥をそこはかとなく描いている。
これを「内向の世代」の典型的作品といっていいのかどうか。もう
吹き荒れた政治性は見られない。内面の描写である。時代の変遷を
も感じさせる。
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