尾崎一雄『親馬鹿始末記』、娘の結婚について淡々と常識的な感慨

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 大変に紛らわしいが、作家の、あの「人生劇場」の尾崎士郎
さんには一枝という娘がいた、長女である。だが尾崎一雄さん
の娘さんも一枝という長女がいた、生まれは一年も違わないと
いう。この二人の尾崎一枝は、同じ早稲田大学に入学する。士
郎さんの一枝さんは国文科、一雄さんの一枝さんは英文科。し
違って二人は時々、間違えられたという。ふたりとも無事に卒
業し、結婚する。結婚の時期も接近していて、半年も隔たって
いない。尾崎一雄さんの方の娘さんは良人の勤務地である大阪
へ行って住んだ。戦争が始まって以来、尾崎一雄さんは箱根を
超えての旅行をしたことがない。結婚した長女の様子を確かめ
るため久々に列車に乗って大阪に行く。

 とまあ、そんな調子で娘さんとの話を書いたのが「親馬鹿始
末記」、「真説親馬鹿の記」、「華燭の日」、「箱根越え」な
度であるが話のメインは年頃の娘への父親の感慨というもので、
特段に強いて娘を一人の女として観察している、というわけで
もなく、また父と娘の人間としての愛情、あるいは憎悪を描い
ているわけでもない。あくまでも普通のありふれた父親の、
これも普通の娘への感情の動きを述べたものだと思う。

 深刻な問題に直面してそれを考えさせられる、という厄介さ
もない。至って安心して読める、同じような年頃の娘を持つ父
親は同感できそうだ。常識的な内容だ。淡々と書いているよう
で実は結構、苦心してそうな気もする。あるいは名文というの
かもしれない。が、間を置いて雑誌に発表した作品のようで、
どれも同じようなことを同じ調子で書いている。これらが一冊
になってしまうと、読み通すとなったら、読者は、同じ内容を
同じ調子の文章で繰り返し読むということで、ちょっと煩わし
いかもしれない。何よりも刺激もないから、退屈と云えば退屈
だろう。

 実は一雄さんには次女もいて、この次女についての「あだ名
はボス」、「三日月お圭」の二篇も収録だがこれもやたら重複
箇所が多い。さらに一雄さんの祖父や叔母のことを書いた作品
も収録されている。ただ不必要な引用の文章が長々と、また余
談も多くてちょっと水増しめいた印象を受ける。私小説こそ、
もっと締まっ他感じがほしい気がしないでもない。私小説と
随筆の区別が曖昧だな、とも感じる。

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