日本語の悲しみ


 日本語を「美しい言語」とか、古今東西の絶した文学、
詩歌に適した言語という認識、評価があるのかどうか、だ
が、実例の話で夫が「ガス栓を締めた」と妻に尋ねた。妻
は「そう」と答えた。同じ「ガス栓は締めた」でも「私が
ガス栓を締めた」と云う意味と「語尾を上げ」て云えば、
相手に「ガス栓を締めましたか?」と云う意味になる。
妻が「そう」と答えても「その通り、私が締めました」と
いう意味にと語尾をあげたら「あなたは本当にガス栓を締
めましたか?」と云う意味にも取れる。そこからでも事故
は起きる危険がある・

 日本語には主語がない、主語などなくても通用するから
「愛すればこそ」というような、いくらでも多様な解釈が
できるフレーズというか文句を作り得る。一事が万事、日
本語はそうだろう。だから便利だと谷崎潤一郎は云うの
だが、・・・・・世界に莫大広がる、印欧語族は元来、主
語は用いなくていい。それは動詞の形態で認証も、人数も
、多くの意義が形態の相違で表せるから、そもそも主語は
つけてもいいが、付ける必要がない。ラテン語の「Cogito
ergo sum」で「我思う、ゆえに我あり」超簡潔にして明確
に表せる。

 印欧語も現代語になるとその形態は崩れてきていて、基本
主語を省かない言語も少ないくない、英語、ドイツ語、フラ
ンス語を見ても分かる。形態は簡略化しエているから主語を
省いたりしないのである。それでも動詞の形態だけである程度
は判別できる。イタリア語は主語を省く場合が多い、でもやは
り、動詞の形態で人称も数も、時制も分かる。

 日本語のように後ろへズルズルと最も大切な要素が押しやら
て、しかも省略が多い、だが区別を可能とする形態が備わって
いない言語はあらゆる場面で誤解を生む。イエスかノーかも、
そもそも明確にしない、これは文法性というより、慣習にして
も日本語の特性が影響していると思われる。フランス人が、文
の始めあたりでヌ、neを入れ、最後あたりでパ、pasをいれる
という明晰さに遥かに及ばない。そこから何でも曖昧にして、
ずるずるべったり、という国民性も助長されているのかもし
れないが、疑念は濃厚と言わねばならない。日本な文学者たち
が古来、日本語の曖昧さに溺れ、それを文学の情趣と履き違え
てきたのは否定できない。

 志賀直哉が戦後、「国語をフランス語に変えたら」の提言!
を妄言の極みで小馬鹿にするのも仕方がないが、やはり日本語
礼賛でそのマイナス面を無視するという姿勢はいかがなものか、
なのである。

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