国政に民意を反映のシステムはない、法律はすべて与党幹部と官僚の馴れ合いと談合の産物

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 先日も少し書いたが、メディアは意図的にこの問題から
めを国民を背けさせるのだが、国政において「間接民主主義」
は単に「白紙委任」の意味しかない、ことは明らかである。
国の政策は官僚と与党幹部との談合で決まるだけである。ま
して「議院内閣制」である。選挙区民の選んだ国会議員が基本、
行政の長ともなるシステムだが、これが結果として官僚との完
全癒着を生む基本的な素地となっている。政権与党幹部と官僚
の馴れ合い、いったい内閣と官僚とどちらがどちらを支配して
いるのか?だが結論は官僚組織である。その当該、行政の専門
家、多くの役所利権にまみれた官僚である。官僚組織は官僚が
選んだメンバーによる「審議会」で政策立案の正当化の第一段
階をクリアーし、その御用学者などによる官僚の要諦通りの計
画、法律がそのまま閣議に送られ、閣議了承、閣議決定で国会
に法案が上程、与党賛成多数で可決成立、を年がら年中、繰り
返しているのみである。

 では「民意」がここで反映しているか?というと全くない、と
いうほかない。国民が仰天するような、国民の多くに不利益を与
える政策、法律が片っ端から成立していく。「選挙」で「信任」
されたのだから、なにをやろうが勝手という理屈である、「日
本は間接民主主義が原則だ」ということだろうが「間接民主主
義」の実態は単に「白紙委任」、「何をやろう勝手ですよ」と
いうことでしかない。

以上は分かりきった現実だが、メディアは表向きでも裏面でも
、「間接民主主義」が全く民意を反映しない「白紙委任」でし
かないとして指摘することはない。

 「選挙」、国政選挙がある以上は、これをもって民主主義と
いうほかない、ということらしい。選挙、普通選挙があるから
日本は民主主義、間接民主主義の国だ、と教育でも叩き込まれ
ており、メディアも疑念を一切呈することがない。選挙で絶対
的に民主主義は結実する、だから「一票の格差」で騒ぎ立てる
わけだが、本質はそんなところにはない。

 つまり選挙中に何も具体的な法律の成立の妥当性について
候補者と選挙民の間で徹底討論が行われる訳ではない。つまる
ところ愚にもつかない、現実を遊離したお題目を並べ立てるだ
けであり、結果として国政選挙は既成政党の議席数の多少の増
減るをもたらすだけの茶番劇というほかない。それをもって、
何らかの意味で民意が法律制定に反映することはない。だが
形式的に「選挙の施行によって民主主義の存在が擬制されるに
過ぎない。この「擬制」こそが民主主義の実質崩壊を生むわけ
である。

 現実は政党法、政党政治、小選挙区制のもと党の公認権が
絶対的な威力を持っている。個々の議員は党議拘束をうけて
上程された法律に賛成するのみのデコ人形でしかない。そん
なデコ人形を「選挙」で選んで、どこに「民意の反映」の余
地があるだろうか。

 だが民主主義の建前というものも巨大なる愚民化である。と
云うのもまことに真実云う他ない。弁護士どもは「一票の格差」
を喚き立てる、だが選挙という行為は既成政党の僅かなら議席
数の変化をもたらすのみで、民意の反映という意味は全く持っ
ていない。この選挙の施行で民主主義が擬制されるなら選挙な
ど莫大な経費と手間をかけ、やる必要はないだろう。それこそ
プラトンの理想の哲人政治こそ、といいたいが日本でもし、
選ばれる哲人はこれまた御用学者だけであろう。民主政治を
プラントンは「愚民政治」と喝破したが、この愚民政治は現代
において完璧に完成した、というほかない。

 現実は以上のとおりで日々、あらゆる手段を行使しての「世
論操作、大衆操作」、「愚民化」、「洗脳」こそが現代社会の
真実の姿である。民主主義!を擬制するための行事の選挙なら
全く無意味以上に凶悪である。かって読売新聞が主張していた
「何らかの直接民主主義の制度を国政にも導入すべき」は基本、
正しい。うまくいくかどうかは、分からないが。実は与党幹部
に「白紙委任」の選挙なら投票の必要もまったくないと云うし
かない。

この記事へのコメント

killy
2023年06月05日 16:07
せっかくの名案を政治利権とグルの官僚OBに邪魔をして潰された。という話は聞きます。