中村光夫『文学のあり方』筑摩書房、事実を超えた真実の創造を求める主張


 例によってデスマス調だが、古書で入手可能である。小説
とは、日本文学で長くずっと考えられてきたような実生活そ
のものではなく、架空の物語で実生活よりもさらに高い真実
を描くという考えを、志賀直哉と谷崎潤一郎に応用し、それ
を実証しようとしている。志賀直哉のように、別に志賀直哉
に限らないが今日に至る日本の作家の作品の多くが私小説で
あって、・・・・・人間の肉体が美しいの青春時代だけであ
るように、文学の美しさも、作者の青年期の、その若さの名
残りのある間だけとなってしまい、作家活動が短命に終わり
かねない。逆に谷崎潤一郎の長い作家生活は、志賀流の小説
に反抗し、いわゆるこれは芥川への反駁という意味で出た言
葉だが、「筋のある」小説を書き続けた、少なくとも私生活
べったりの作品は一部でああった。その小説感が健全だった、
と中村は高く評価していいる。それもたしかにそうだが、晩
年に至って「鍵」とか「瘋癲老人日記」などを書く、その変
態老人を描いて「毎日出版文化賞」も受賞、だから長くやる
と恩恵はある、とうことだろう。志賀直哉などは戦後はほぼ
筆を折った、まあ中村には「志賀直哉」という手厳しい著書
もある。

 また日本の文学の混乱は、思想や筋を不純なものとして毛
嫌いする日本流自然主義の小説観、だが筋や面白さを求める
読者の要求との乖離、それも、元はと言えば日本の文学が、
西洋輸入の写実主義を、事実を在るがままに、との坪内逍遥
の誤った理論解釈が支配的となったこと、逍遥の考えを突き
つめると、小説とは事実だけを描く、いわゆる「小説=虚構
の創造により真実描写」の否定となってしまう。

 かくして中村光夫は、事実はかりそめのものでしかなく、
作家は事実の背後にある奥深い真実こそ捉えねばならない、
事実か事実でないかなど何の本質的価値はない、ということ
である。それを捉えるのは作家の想像力と思想だという二葉
亭四迷の写実論に戻るべきだという。写実とは単に見たまま、
事実を描くことではない、それを超えた真実を描くべき、と
いうフローベールの写実論、自然主義が仏文出の中村の基盤
にあるようだ。無論、それこそ常識論だとは思うが、日本は
あまりに私小説的価値観、何よりもすぐ書けるという意味で
安易な形で通例化しているわけである。

 フローベール  madame Bovary

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 端的云えば万事、私小説に流れやすい日本の作家のスタンス
を西欧的な正統なリアリズムに導こうということのようだ。

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