最後に残る友人を考える

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 人にもよりけりだが、高齢化すると誰しも徐々に友人、
知人を失う。別にその友人が生きていても、付き合いが
さっぱり疎遠がちとなる傾向は強いようだ。学校の同窓
との疎遠は誰でもらしい、以前は連絡を取り合ったりし
ていたが学校関係は基本的に徐々に全く付き合いは消滅
していく。喧嘩別れではなく、ようは枯れていくイメー
ジだ。学校の関係がなくなると趣味性、またSNSで知り
あった人、などとなるようだ。

 私は青春から若かりし頃、壮年時代、孤独地獄に終始し
たから、今の友人関係の数でも本当に恵まれていると感じ
る。単に孤独地獄ではなく、次男の私への憎悪の本能、と
いうとイヤナ言い方だが現実は地獄であり、そんな親と、
また同時に孤独地獄を長く生きた私はやっと今になって真
の意味の友人、知人を得ることが出来たという思いである。
遅すぎたかもしれないが、それだけに喜びも大きい。ただ
し現在も親戚縁者との付き合いはない、限られた従妹のみ
である。地域の人とのつきあいもない。学校の同窓もいっと
き親密になったが、親しかった方が亡くなって、正直、も
う同窓会に行くこともなさそうだ。そもそも開催されない。
小学校はもう一度と期待していたが、可能性がなさそうで、
架空の同窓会体験記を書いたほどである。

 だから結果として家族とSNSがキッカケで知り合った
趣味も交えた方々だけである。例外的に限られた従妹、で
ある。しかしこれでも私は驚異的な幸福と云わねばならな
い。十分、ゆとりのお付き合い、正直、これ以上の人数は
無理と思える。さらに長年、私を憎んだ「母親」もこの世
から引き剥がされた。この表現は真相をよく表している。
生涯で、こんなことを云えば親子関係は終わる、という、
惨憺たる暴言をを何十万回も私に浴びせ、最期まで一切、
反省のなかった「母親」だった、それがもういない、のだ
から、これからは本当に友人知人の方々と交遊を意義深い
ものにできる。この世ではまずあり得ない苦渋を舐めつく
した壮年期までであった。どんな不幸にも耐えられる、ど
んな孤独にも耐えられる、人間になり得た私だが、この年
齢でやっと親しい友人関係を持ちえることが出来た。実際、
親しい友人は少ないほどいい、数多くの友人を誇る人がい
るがそれでは、真実のお付き合いは不可能である。友達は
実は少ない方がいいのである。

 個人的な体験だが若い時代、壮年期は孤独を極めた。芥川
は若い頃、初期の作品で「孤独地獄」という小品を書いた。
小説というより随筆である。それゆえ、いかなる孤独にも
耐えられる私は価値ある友人関係の意義を知悉できる。それ
は一つの財産と思える。

この記事へのコメント

killy
2023年06月06日 19:32
高齢になると年賀状だけの付き合いが増えました。
毎年、「今年をもちまして年賀状を中止いたします」という文面も増えてきました。
それでも止めたくない一部の方々には、暑中見舞いに「勝手に送りますので、どうぞお受け取り下さい」と書いております。 特に矢掛高校100周年記念で苦労された先生方には、止めたら罰が当たりそうで。