司馬遼太郎『歴史と小説』1969,司馬史観の「俯瞰法」という方法論

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 歴小説は司馬文学の最大のジャンルである。これが近代以前
であればいいが、明治以降となるとその史観を批判されること
も多い司馬遼太郎。だれも本当の歴史など分かりやしない。ど
こかで資料の引き写し、または資料の大量引用、一種の盗作、
などが大家!の間でも横行だが、書くとなれば当然だ。

 司馬文学の歴史小説、ほんとに話題作、著名な作品も多い、
司馬史観とは一体なんだろうか、1969年に刊行されているが、
ただし随想をまとめたものだ。

 作家は自分の作品についてさほど語らないものだろう。なぜ
なら作品自体が全てだからである。この随想集はさあざまな雑
多な内容を含む。歴史的人物について触れたものや、旅の中に
見る歴史、あるいは時世に言及したもの、それらから司馬歴史
文学の秘密というほどでもないが、鍵らしきものが見出される。

 たとえの話、純文学と大衆文学の違いについて述べた随想、
そこで桜がどのような種類に分けられ、自然的条件でその桜の
命がどう変化し、苦しみ、あるいは絶望しているかに執拗な目
を向けるのが純文学であり、そこから視点を変え、とにかく花
見を楽しむ大衆の側に合わせるのが大衆文学だという。さりと
て「大衆とは」の定義もない、無産階級だ、ともいえない。こ
の日本でサラリーマンほど制度的に恵まれた階層はないのであ
るから。ともかくも、司馬遼太郎が好んで歴史上の人物にテー
マを置くというのも、書きやすい、大衆の好みに沿いやすい、
のは当然だが、歴史小説を書くことの理由は「完結した人生」
見ることが面白いから、というのも一つの鍵だろう。
 
秀吉は臨終であとに残る秀頼を諸大名に頼みんこんだ、誓いま
で書かせた。だがその結果はどうだったろうか。その姿を現在
見ることができるのだ、面白くないはずはない。

 司馬史観、あるいは史眼である。

 「某という人物、その人生というものは、その某の人生が
完結した後、時間が経てば経つほど。私にとって好材料となる。
時間が経たねば、俯瞰は出来ない。俯瞰、上から見下ろす、そ
う云う角度が、私という作家には適している。この俯瞰法で某
を見る場合、筆者は某その人以上にその人の運命、環境、その
最期、さらにはその後代に与えた影響、というものを知ること
ができる」

 司馬歴史小説の面白さとは、この俯瞰法によっている、とい
うことだろう。誰も真実どうだったか確定して知り得ない。だが
作品中で登場人物がまるで仲間同様に語られるのは、独特な史観
の切込みのせいだろう。

この記事へのコメント

killy
2023年06月08日 18:46
20代の頃にハマりました。 大藪晴彦にも。