『恨の文化論』イー・オリョン、1978年、日本人の「怨」に対する韓国人の「恨」
最近のコリアタウンの人気は中華街を上回る、何よりも
韓流文化、食事もサプリも最先端芸能人、韓流美人、など
韓国への親しみが格段に増している。しかし、さりながら、
あの安倍長期政権を支えた支持層はネトウヨ、保守層の、
嫌韓が起点になって基盤でもあった。安倍政権の韓国制裁
に当時は熱狂した右翼メディアもさすがに失速した。イデ
オロギーデはなく古来からの差別感情が保守回帰、それが
安倍政権を支えた、のは事実、だがその誤りは確実に修正
されつつある。
他のアジア諸国にたいしての戦争被害の賠償は早くに完了
していたが、韓国とはなお懸案が残っている。「他のアジア
の国はもう忘れているのに韓国はけしからぬ」と日本の右翼
は戦争関連被害の否定を逆に国家主義の材料とする方法論を
確立している。日本の民間戦争被害は被爆者のみ補償、他は
ゼロ円、「徴用された日本人にも何も補償はないのに」とい
う日本人の言い分は何処まで正当なのか、
1978年に刊行され、その後、新版も出たようだが、「恨の
文化論」副題が、「韓国人のそ心の底にあるもの」という本
、最初は学生社からである。韓国人評論家によって書かれた
韓国人論である。元のタイトルは「土の中に、あの風の中に」
だからちょっと邦題とは雰囲気が異なる。だが日本語訳に際し
、著者が日本語のタイトルを「恨(はん)とうらみ」という章を
書き足して、韓国人の真情を理解する上での重要な概念として
「恨」を強調したのである。
著者のイー・オリョンによれば、日本語では「恨」と「怨」
は同じ意味で使われているが、韓国では全く違った言葉だとい
うのだ。日本文化にも詳しい著者は、その違いを「忠臣蔵」と
韓国で似たような位置を占める「春香傅」との比較で説明する。
四十七士の怨みが吉良の首をはねた終わったように、怨みとは
個人への感情である。
対して「恨」は自分自身の目的、希望の挫折によって起こっ
てくる内部の感情である。「春香傅」のヒロインも悪どい権力
者のため散々な目に遭うが、このロマンスは復讐を問題にせず、
ただ愛の成就に至るまでのヒロインの切々たる「恨」を謳い上
げることで韓国の民衆に愛されてきた。

この「恨」の分析で日本人が感じるのは、それは実は日本の
歌謡曲や演歌の情感の中枢を占めるものではなかろうか、とい
うことだろう。これは演歌の故郷は韓国だという考えにそのま
ま結びつきそうだ。それだけではなく、この本が韓国の独自の
民族性を数多く述べて、なるほどと納得するはずだ。しかし同
時に日本人特有の心情と思いこんでいたことが、いくつもより
純粋な形で韓国人において保たれているということを知るだろ
う。1978年時点より遥かに重要な日本と韓国の関係である。こ
の本の重要さはいっそう増している、が新品としてはもうセール
されていない。
「恨」が政治的なシチュエーション、で韓国人にどう現れてい
るのか、元首相が必ず逮捕される、というのは韓国人の日本人と
異なる徹底制とみえる。同時に最後は許す、同情する、という
現象ともなる。「恨」は深く多様性があるということだろうか。
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