小林勇『雨の日』1961,岩波茂雄の女婿、岩波書店の元会長の味わい深い随筆集

岩波書店のいわばヌシみたいな方だが、この随筆集は岩波
書店からではなく、文藝春秋新社からである。岩波茂雄の女
婿、元岩波書店会長、この本『雨の日』は刊行は1961年、過
去に年間に発表した随筆を集めたものだという。でも1956年
まで遡るものも数編ある。三十八篇収録されていて大きく、
「雨の日」、「亡友の子どもたち」、「懐遠」、「月白風清」
の四グループに分けられている。
本のタイトルとなった「雨の日」の章は旅の印象、身辺雑記
が中心で、お世辞抜きで豊かなコクのある人生体験によって、
著者の心のなかで純化された一つ一つの記憶が絵画的に述べら
ている、といっていい。東北線の汽車の窓から見える桐の花は、
故郷の家と亡くなった兄を思い出させ、郭公が好きだという、
温泉宿の可憐な仲居の娘は、著者の心にしっかり一篇の詩とな
っているかのようだ。石狩川の川岸ではまなすの実を摘み、台
風で長く停車している電車の窓から激しい雨に叩かれるジュズ
の群生を見る。
小林勇さんのエッセイ集はそれまでも何冊かあったそうだが、
この本に至ってその文章は非常に洗練さを増していると思える。
随筆は簡潔な中に豊かで深みのある内容を綴る、というなら、
その境地に達しておられるほどの文章だろう。
でも興味深いのはやはり、長く岩波書店の中枢にいテの経験
である。芥川の死後、全集出版の折衝で夫人との話が難航した
とき、夫人の腕に抱かれていた也寸志さんが、著者の差し出し
た手にこたえ、やってきた。「人見知りする子なんですが」と
夫人がそれまでの沈んだ表情から明るくなった、とか。
岩波茂雄の手習いの話、露伴の棺に収めたタバコを、踏み台
に登って、棺を開け「先生、拝借します」といって取り出すな
ど、まず通常はありえない文学者との交際に通じた著者ならで
は、という話もある。
「亡友の子どもたち」、柳瀬正夢、坂口栄、三木清の三名を
挙げているが、みな、戦争の犠牲となっている。戦時体制の、
犠牲と云うべきだろう。彼らの子どもたちは成人し、それぞれ
の人生を歩んでいるのである。
誠に深みのある得難い体験を積んでおられる小林勇さん、で
ある。
この記事へのコメント