富士川英郎『菅茶山』1981,独文学者の驚くべき菅茶山研究、大佛次郎賞受賞
備後の福山市の神辺町、「広島県」というと安芸の宮島を
想起させてしまう。広島県に福山市は組み込まれ、性格が曖
昧化され、また多くの誤解を生んでいる。ともかく神辺町の
生んだ江戸時代の偉大なる文化人、漢詩人の菅茶山なのだが、
正直、知名度はその偉大さに比べ、驚くほど低い。私のよう
に近隣に住んでいた者でも、「菅茶山って誰?」というのが
偽らざる現実で、教科書にもまず出ない名前である。日本史
の教科書、参考書にも見ない、文化史で取り上げられても良
さそうだが、その門人だった者が遥かに有名になっている。
それと富士川英郎、東大独文出の偉い先生らしい、、それが
なぜ菅茶山?岡山の第六高等学校の講師時代、岡山県に接し
ている神辺町の菅茶山を知ったのかもしれない、とにかく、
異常な研究熱心さ、たいした学識である。
江戸時代の人々にとって、文学の形式で最も格が高いもの
は何かというと、俳諧でもなく和歌でもなく、読み物でもな
く、時代は武士の支配、何かにつけて中国文化かぶれであり、
また儒教が盛んで漢詩の地位が極端に高かった。長い江戸時
代、」日本最高の漢詩人は?というと、それが菅茶山なのだ
そうである。でも今は、というか明治以降は本当に知られな
くなった。
菅茶山は1748~1827,備後の神辺の裕福な酒業も兼ねてい
た農家に生まれ、山陽道の宿場ながら博打などで荒んだ神辺
を学問の向上でよりマシな町としようと考えたが、まずは京
都に出て朱子学を学んだ。その後、神辺に帰り、1781年ころ、
私塾設立、1796年、私塾は福山藩の藩校と認められ、廉塾と
なづけた。1801年、福山藩の儒官としての知遇も得た。
ともかく漢詩人としての名声は京都、江戸などの文人の間
で名高く、福山藩の殿様が江戸に出て大学頭の林述斎と詩を
論じた際に、林から「今の日本で詩を作らせたら菅茶山に優
る者はいない」と云われ、それが自藩のものとは知らず、仰
天したという話がある。
菅茶山の名声はその詩集がどのような条件で刊行されてい
たかでも分かる。当時、漢詩集は自費出版が通例だったが、
菅茶山は最初から本屋が負担していたという。本の体裁は茶
山の望み通り、それに茶山の亡き弟の詩集と抱き合わせでい
い、ということで上梓されたというのだ。
茶山は玄人に受ける詩人であり、さらに時流に先んじてい
た。当時の漢詩は唐詩の模倣から宋詩の影響下に入るところ
であり、日常生活を村に求め、実景を写し、実感を尊ぶ風潮
になっていたが。その傾向を先取りしたのが茶山であった。
さりながら、明治末年の自然主義文学勃興以来、漢詩は衰
退し、菅茶山の名も人の記憶から消え去ろうとした。俳諧や
読本の作者の知名度の青天井ぶりからして、漢詩人だった官
茶山の知名度での不遇は惨憺たるものとなった。唯一の例外
が森鴎外で『伊沢蘭軒』で茶山を取り上げたことだ。だが、
忘れられたも同然だった江戸時代最高の漢詩人、茶山再評価は
徐々に進展したようだ。中村真一郎『頼山陽とその時代』で
何度も茶山に触れているし、吉田健一は『文学の楽しみ』の
巻頭で菅茶山を取り上げた。
だがいかんせん、漢詩大家だった茶山は地味だった。芭蕉や
蕪村、一茶、俳諧の大家と比べ惨めだった。だが最も持続的に
菅茶山に興味をいだき、研究したのが富士川英郎である。
富士川は『菅茶山と頼山陽』から茶山を論じ続けた。著名な
独文学者が何故?である。
富士川はこの偉大な漢詩人に親しみ、西欧文学研究で得たそ
の方法論を茶山に適用した。じっくり語っていく。茶山のみな
らずその同門、門下の弟子を論評したり、最晩年,藩命で江戸に
下ったとき、其時の友人たちとの付き合いを考証している。評
伝的な内容だが、その根底は漢詩の感傷だ。漢詩人、菅茶山の
明治以降の不遇を惜しんでいるようだ。
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