阿川弘之『雲の墓標』1956,特攻隊編入の京都大学学徒兵の日記の形式、あくまでもリベラルな人間性の追求

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 阿川弘之と云えば『雲の墓標』だろうか、基本的に広島人
であり、広島高師付属から旧制広島高校、東大文学部国文、
海軍予備学生だったが応召し、軍令部、多少中国語を学んで
いたので中国での諜報担当、抑留され1946年、帰国、志賀直
哉に師事することで文壇に、よく知られた作品は「雲の墓標』
だが作品中で戦争ものは多くはない。ただし『雲の墓標』と
『山本五十六』が著名で、なにか海兵出身の戦記作家か、と
誤解されやすい。また「特攻隊」にいた、とも誤解されやす
い。自己の直接的な体験ではない。

 この時期、小説を書き始めてさほど、時間は経ってなく、阿
川さんも試行錯誤だったが、まだ戦争の影響が色濃く残ってい
てこの題材を選んだようだ。

 さて、作品は、・・・・戦況は日本が劣勢、とかなり明確に
なった昭和18年12月、多くの学徒兵が動員され、広島県の大竹
海兵団に送られてきた。あの有名な学徒動員、雨の神宮外苑で
の学徒出陣壮行会は昭和18年10月21日である。

 早稲田、東大、広島高師、など出身校別に分隊が分けられ、
京都大の分隊には万葉集の研究をしていた吉野、藤倉、鹿島、
坂井の四人がいた。不慣れな生活に戸惑いながら、四人は同じ
分隊でともかく生活できることを喜んだ。この作品は京都大の
学生、吉野の日記を中心に、その間に藤倉や鹿島が恩師に送っ
た手紙などによって、特攻隊の学徒の最後の二年間を描いた作
品である。

 学徒動員の兵士たちは毎日「死ね」、「帝国海軍の伝統に泥
を塗るな」と叩きこまれ、いったい死ぬのが目的なのか、戦争
目的の完遂が目的なのやら分からなくなるが、結局は、自らを
殺すことが目的と悟る。この戦争はどうも誤った、根本的に間
違ったものという意識も捨てきれない。日本が絶対正義ともいい
難い。祖国存亡の機器もわかるが、「自分たちを自由主義に蝕ま
れたサルだと思っている職業軍人の手に、生命を一束にして委ね
るなど我慢ならぬ」と考える。そこで精一杯の努力をする。

 予備訓練を終了し、昭和19年2月、鹿島は横須賀へ、残る三名
は土浦航空隊行きが決まるが、年内に出水(鹿児島県)、次は宇佐
と移動させられる。猛烈な飛行訓練とだが、そもそも訓練に見合
うような飛行機も燃料もない。事故が多発する。訓練は熾烈であ
る。殴られているのか、訓練しているのか、殴られている方が多
い。

 新しい隊に編入されたときは緊張もするが、すぐに、消極的に
なる。海軍への批判も戦局への不安も、自己への疑念も、全て
前向きに統一しようとしても続かない。

 「不思議な時代ではないか、政治家も軍人も学者も詩人も、芋
を食って死ぬことを謳うが、だが生き残って祖国を再建すること
なんか誰からも聞かない」と藤倉は鹿島宛に手紙で書く。

 特攻肉弾攻撃が採用されたと聞き、「これで死ぬ以外になくな
った」と思って愕然とするが、次に「どうにでもなれ」と自棄気味
になる。なんでもやるそと覚悟はするが、茫然となる。食欲だけは
盛んで。外出のたびに物資の欠乏が気になる。コックリさんの予言
も、あながちウソとも云えないような気分になってしまう。大本営
発表のウソもイヤでもわかってくる。教官も実質、ヤケを起こして
いる。そもそも燃料がない、空を飛べないのだ。だから防空壕堀り
をやるが、昭和20年、1945年1月からまた飛行訓練が始まる。

 5月までに藤倉と坂井は死んでいた。「もう、これ以上、貴方が
たに死んでほしくない。なんとかして戦争を終わらせてほしい」と
散髪屋のおかみはいう。

 「特攻隊も神格化された時期は過ぎてしまった。自分のこととし
て顔に出して悩むことも出来る」ようになって気分が楽にはなる、
と吉野は日記に記した7月9日、だがその吉野も「雲こそわが墓標よ
、落日よ碑銘をかざれ」との遺書を残して消えていった。

 特攻隊を記した国粋主義的な本とは無縁である、どこまでもリ
ベラるな視点、自由主義者的なスタンスからの誇張もなく感傷も
ない率直な文章で本当にイヤミがない。全くの犬死にに追いやら
れる二年間、懸命に生きる学徒動員サれた者たちの真摯な真情が
綴られる。

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