人生への妙な自信?どんな苦難、災難、不幸にも耐えた!人生はこれから

  ダウンロード (54).jpg
 常識的に云うなら人生の短らからして、残りの人生の時間
など知れたものだろう。だが、過去の長い長い、あまりに苦
難、重篤な病気、同時に誤った食生活の極み、乱脈な飲酒の
時代、最悪の家庭環境と親、・・・・・結果としてそれらに
耐えてこられた、そしてここまで生き抜いている、という事
実にある意味、妙な自信めいたものもある。自信といって、
別段、確たるものではない。隊長が悪いと明日まで生きる自
信さえなくなる、まさしく「一日一生」である。だが同時に、
生き抜ける自信めいた、というほ裏目に出る可能性もあるが、
「死んでもともと」が同時に「生きてもともと」という自信
につながるのである。無論、人間、生きている以上は死なな
いだけの話、端的に云うならば「人間とは70歳から100歳ま
での間には死ぬ生き物」は否定のしようもない、ならもう、
日暮れて道遠し、歎くのみかといえば、そうではない。い
ままでの苦渋、苦難から、今までの人生が全く無であったと
痛感するのである。過去は全く無意味、母親は私に最初から
殺意すら持っていて虐待、脅しの限り、親の配慮のない学校
生活は用意スべきものも用意できず、屈辱の日々、学校に行
くとは屠殺場に引かれていく牛のようでしかなかった。時間は
過ぎたようでも、実は時間はなかったのでは、・・・・・とさ
え思える。過去が無である以上は、実際は年を取っていない、
とさえ思える。・・・どうでもいい想いだが、すべてはこれか
ら、というのがいつわざる気持ちなのである。だって過去に何
があった?育った家庭も通った小中高も地上地獄だった。その
ような悪環境は実は年齢をとらない、その漠然たる想いがいつ
も私にはあった。全てはこれから、無論、一日一生は変わらな
いのであるが。私の人生は勝った負けた、ではない。人生その
ものを生きていない、のである。別に三年寝太郎でもないが、
人生を生きていない。それはこれから、あゝ、遅すぎるが、だ
からこそ、幸福なのである。

この記事へのコメント