田岡典夫『姫』1958,長い「土佐日記」鑑賞の成果!「田岡」の名前で損をした優れた作家、直木賞、毎日出版文化賞(小説野中兼山)受賞

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 田岡典夫、1908~1982,高知県出身、中国文学の田岡嶺雲
の孫、1943年に『強情いちご』で直木賞受賞、戦中から長谷
川伸に師事、wikiには「山本周五郎にライバル視された」とあ
る。歴史小説をその分野とすることから周五郎が警戒したよう
だ。だが知名度で大きく引き離された。周五郎の死後、相当
経って1979年、「小説野中兼山」で映えある毎日出版文化賞
受賞。ただ田岡一雄山口組三代目の全盛と重なって、イメー
ジ的に大きなマイナスとなった。四国には田岡という名前が
ある。神戸大時代、田岡という同期がいて体育実技で教官から
ら「山口組」とあだ名されていた。

 さて1958年、昭和33年に発表された『姫』田岡典夫、だが
wikiに作品として掲載されていない。

 「土佐日記を土台として何か書いてみたい、と思ってから、
八年目にしてやっと、この作品を仕上げました」と「あとがき」
にある。紀貫之に娘がいた、という設定をほどこし、彼女の筆
になるという形での中編小説である。

 材料はすべて「土佐日記」から取っている。土佐守として任期
を終えて貫之が帰途についたのは承平四年、934年12月21日、京
に戻ったのが翌年2月16日である。「土佐日記」はこの間の見聞、
懐いを綴り、自作の和歌をも入れて平淡な記述で、そこに流れる
哀愁と洒落の微妙な調和が、女流による他の平安日記と異なる特
徴を示している。

 船中での様々な経験、接触した人たちの人情風情を、同行中の
一人の娘の目と心を通じて再構成したというのが『娘』である。

 貫之は巧妙な歌人であり、郷里に引退するしかない70歳の地方
官吏である。母とは別の女に生まして、早世した愛児への追慕と
海賊襲来の不安、その中で酒と歌でうさを紛らす老いたる父親と
、その従順な伴侶の母とは見るもの、聞くものは同じでも、17歳
の娘にとっては、その感受性も大きな違いがあり、わけても困難
な旅中なって、あますところなくその人間性をさらす老父母の姿が
彼女の大きな観察の対象となる、のも当然だろう。父の作る歌その
ものにも、彼女なりの批評があり、疑問も湧く。そんあいきさつが
、平明単純な日記の中にはっっきり書かれている。

 「世の中に思いやれども子を恋うる思いにまさる思いなきかな」
これは父が死んだ彼女の腹違いの妹への懐いをはせた作だが、これ
についての彼女の感想はこうだ。

 「歌が相変わらず父の理詰めで平板なものだが、父君としては
卒直な感慨だろう。その気持は理解できる。しかし、私がやりき
れないのは、その感情が何のためらいもなく、母君に浴びせられ
ることであり、また母がそれを甘受して、その紋切り型の感情を
私にも強要することだ」

 さらに母からすれば憎い仇をなす女の生んだ子の死を母が本当
に悲しむのだろうか、という疑問である。これは世の聞こえ、相
手の女の意地、さらに老いた夫へのいたわりなどの抽象的な混合
物にしか過ぎないだろうとして

 「当代の詩宗をもって自任する父が、それくらいの感情をなぜ
察し得ないのか。家庭生活ではタイラントでありたい父君は、そ
うした場合、歌人のデリカシーを忘れてしまわれるのだ」

 という。また「文化の脆さ」とか「必要悪」とか娘を近代女性
に仕立てすぎているが、小説と思えばいやむえもないだろう。「
土佐日記」は女性に仮託された日記だが、この作品は巧みな照応
をっせ、おのずから別の世界を作り上げている。作者の長い間の
「土佐日記」への愛着と研究、鑑賞の成果が小説として結実され
ているようだ。全く知られていない作品だが古書でなお入手可能
である。

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