坂本賢三『機械の現象学』1975(岩波)と横光利一『機械』の比較
横光利一の昭和5年、1930年に『改造』に発表の『機械』
は多分、横光利一の最高傑作だろうか、この作品でそれま
での新感覚派から心理主義への鮮やかな転換を遂げた。息
の長い文章が俗に言う、唐草模様的に切れ間なく、、うね
うねと続く、横光利一によって把握された心理とはそのよう
なものであったわけで、不安定な人間関係が露呈し、そこか
ら人間が機械に支配されてゆく、という外的なものによる人
間支配といテーマの発露である。「私はもう私がわからなく
なってきた。私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖がじりじ
り私を狙っているのを感じるだけだ。誰かもう私に代わって
私を審いてくれ。・・・」
機械といって広汎すぎる。機械なくして人間は人間たり得
ない。「機械」を文学としてであるが、人間との関係を問い
つめた作品である。
それから45年後に岩波から出た坂本賢三、科学思想家による
『機械の現象学』、長らく日本では機械についての「考察」は
横光利一以来なかった。端的に言うなら「人と機械の関係を、
徒然草的に考察したものだ。
文明社会では人は機械なくして生きられない。横光利一もあ
るが、そのままのテーマではチャプリンの「モダンタイムス」
などによる、機械化による非人間化が被害者意識を以って語ら
れることが多い。といって、機械と人間の共生は変わることも
ない。
坂本賢三の本に従うとだが、機械は我々の外部にあるもので
はなく、もっと深く人間に関わるものとして考察する必要があ
るというのだ。『機械の現象学』はまさにそのような人間と機
械の関係論だ。
で目を向けられるのは、作用から見た機械である。するとそ
こに、人間の手や眼のうちに機械の働きの原型が見られること
がわかる。手には別々に働く指があり、揃えることも出来るし、
広げる指もある。指の尖端には爪がある、握りこぶしを作れば、
ものを叩くこともできる。さらに日本語で「てだて」と云うと
き、それはシステムを作り出すプログラミングを行うことを指
している。見通しを立てて、プランニングを行うのが眼である。
手はつめを備えた利器であるとともに、掌にくぼみをつくる
容器ともなる。それにしても、従来のヨーロッパ的な機械は、
攻撃的な利器を中心としてこなかったであろうか。容器は単なる
入れ物ではなく、、そこで化学変化を起こさせるための、つま
り生産のための「うつわ」を考えるべき、だろう、という。
様々な機械は全て手や眼をはじめとする人間の器官の働きを
人間が外側に実現したものである。だがら機械が人間に立ち向
かうとも見られることも、実は人間が人間に立ち向かっている
ことにほかならない。この場合、幾何とは道具や、からくりに
始まって時計、動力機械、計算機、さらには人工頭脳に及ぶ、
・・・・・これらさまざまな機械の働きが人間の歴史の中で持
ってきた意味を多角的に捉え、人間らしさの回復は、外的なも
のとなった知性を取り戻すしかない。
というような内容だろうが、面白いものではない。まあ自由
な語り口の別に現象学的考察ではなく、徒然草的考察だろう
か、徒然草ほどにも面白いはずもないが。機械の働きを示す日
本語の語義の広がりや、山口誓子の俳句、石橋忍月と森鴎外の
「幽幻論争論争」なども引かれているが、どうにも柄にもなく、
という印象を受けてしまう。
やはり横光利一の『機械』の足元にも及ばない、ジャンルは
異なるが。
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