永田雅一『映画道まっしぐら』1953,永田ラッパと呼ばれた男の半自叙伝

あゝ、懐かしいね、永田雅一さん、戦後は「永田ラッパ」
で一斉を風靡した、映画会社、大映社長、また野球がお好き
で大毎、東京オリオンズ、ロッテのオーナー、途中でオーナ
ーを退任、その時の天を仰ぐ表情の写真が印象に残る、野球
についてはお好きでも「道楽ムスコ」とその経費の多さに全
く弱り果てていた。だが私財を投じ、東京球場を建設、並の
人ではなかった。
さて、この本、「羅生門」で国際的な評価、「誰が言い出
して流行させたのか知らぬが、私のことを『ラッパ』という。
「『ラッパ』というのは私の愛称7なのか、それともダボラを
吹くラッパだというのか、声が大きくてが我鳴るからラッパ
なのか」と永田さんは云う。この本を出したのは自分をもっと
よく知ってほしいから、という気持ちからのようだが、海外視
察したおりに、「飛行場に着いても、出迎えてくれる人は『
ジャパニーズ・トランペット』と口にする人さえあって、滞在
中は愉快な気分で過ごすことが出来た」というから、この「ラ
ッパ」という異名は決して永田さんに不快なものではなく、逆
に気に入っていた、ということだろうか。
永田さんが語るように、その今日、つまり1953年、昭和28年
時点で、今日に至ったそもそもは、その二十数年前に、日活で
外事係を担当の頃、撮影所を見に来た逓信大臣の藤村義朗に、
その見事な案内ぶりを認められ、「堂々と自ら信ずるところをの
映画事業への抱負を堂々と語り」。「その自信の強さが気に入ら
れたらしい」でこれが「ラッパの鳴り始め」であった。
このエッセイ集には、ますます自信を固め、「映画道まっしぐ
ら」に進んだ経歴、就職について、とか学校を出る若い人への助
言、欧米やアジアを視察していかに歓迎されたか、また映画「羅
生門」を輸出した経験によって説く、ドルを稼ぐ日本映画の企画
など様々なテーマが含まれ、いずれも永田さんの自信が裏付けに
なっている。
永田さんは「注意力、親切、愛情をもって働け、これが私のモ
ットーである」という。案内係という仕事で下らないなどと思わ
ず、何事も研究熱心なこと、これがチャンスを逃さないことに繋が
るというが、人見知りせず、自信をもって相手に体当たりでぶつか
る、という方法より、そのように生まれついた永田さんの性格が、
その後の成功につながった、というえるだろう。撮影所は古い慣
習が残り、合理化しにくい部分もあるあ、その統率は永田さんのよ
うな性格が適任だった、ということだろうか。
幼年から母親に導かれた信仰心、「春夏二度、身延山に籠る」と
いうう話もあるが、こうした信仰に厚い、精神家めいた部分が、そ
の性格の基盤ともなったようだ。個性的であり、周囲に発散する、
希少な独自の魅力を持つ。スピーチは言葉の量のみならず、それを
勢いで相手を圧倒する気迫、「ラッパ」の異名は当然だったわけで
あろうが、正直、エッセイ集では迫力が失せてなにか粗雑さのみ目
立つ。あくまで永田さんは口演型の人間ということである。
アメリカを視察し「アメリカにはアンダードッグ、という言葉が
ある。下の犬ほど可愛がる、弱者を助けるということだ」、「アメ
リカ人の対日感情は極めて簡単、アンダー・ドッグだ。可哀想だか
ら助けてくれている。助けてやろう、これ以外に何もない」
だがアンダー・ドッグの意味は「ケンカに負けた犬」であり、こ
れは永田さんの誤解だ。「対日感情は極めて簡単」はあまりに単純
すぎる。ちょっとこれは甘いかな、・・・・・
でも全ては去ってしまった。永田雅一さんなんか知らない世代がも
う遥かにメインだ、流れ去る記憶である。
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