あゝ、人生はどこまでも、すっとこどっこい

江戸言葉で「すっとこどっこい」というものがある。現実に
日常会話で使うことはまずない、だろう。関東の言葉だから、
西日本での使用例はほとんど見ない。その昔、というべきか、
ヤマハのバイク、SR400、あの単コロのバイクだが「SR400は
、すっとこどっこい、が魅力だ」そう読んで、確かバイク雑誌
だったと思うが、意味を測りかねた、のである。最近になって
やっと調べてみたら相手を「この、すっとこどっき」と面罵す
る場合は「この馬鹿者」というくらいのも意味、・・・・・に
しても単にその枠に収まらない気がする。「すっとこどっこい」
のニュアンスがシンプルな意味での「馬鹿者」を超えていると
思われる。なんか「バカはバカでも生きる気概を持っている」と
云うニュアンス、型にはまらぬ生き方をする人間、それがバカに
通じるにせよ、それを超えている何かがある、と感じる。国語辞
典を見ても、その意味で得るものはないし、なにか詳しい解説も
乏しい。だが「すっとこどっこい」でしか語り得ない人生という
ものもあるのだ。
私の人生は人生ではない、人生におよそ値しない、あまりに、
まず考えられない悪環境、不遇、災難、試練、理不尽な出来事、
それが超高密度の中性子星のようなもので、しかもそれが二十歳
までに、である。それ移行も際限なく災難、不条理は続いたが
人生を支配するものは全て二十歳までである。およそ、この世
のものではない。親がその根底にあるが、今さら具体的に述べて
みても恥を晒すだけのことである。ともかく、現実は泥まみれで
ある。どう考えても人生以前、というのか、そもそも生きること
が出来なかった、という無念さに襲われてならない。
それがなぜ、すっとこどっこい、・・・・生きること自体が、お
よそ、バカモノ的ある。バカを承知で生きる、生きることなど耐え
られない、だがなお生きていく、生きていく意味も見いだせない、
人生は終わり良ければ全て良し、ではない、プロセスである。あま
リに子供時代、青春時代、20代の時期が不幸というならそれを生涯、
取り返すのは難しい、心の傷は生涯,癒えることもない、だが生き
ねばならない。救いは生きることしかない、に帰着する。生きるこ
とは、バカに徹さないとできる芸当ではない、バカを承知で生きる、
残された唯一の道である。それを「すっとこどっこい」というなら、
まさしく、そのとおりである。
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