「終活」は造語として最初から破綻している、全ては常識の内にあることでしかない


 いつからか「終活」という言葉が幅を効かせている。まず
「就活」からの言葉の遊びめいた派生だろう。では「終活」
とは何?基本的に自分が死んで残された家族に迷惑がかか
らない、余計な負担をかけないように身辺整理することと
もう一つ、残された時間をより有意義に生きる前向きな精神
、そのための具体的計画、・・・・・というらしいが、だっ
たら日頃から当たり前の話で強いて「終活」などという変な
言葉にコジツケルべきではない。言葉として「終活」は私は
最初から破綻していると思える。「終」などという言葉を安
易に使うべきではない。本来、従来ある当たり前なこと、い
たって常識内のことに「終末」の「終」を当てはめれば、そ
んな当然のことが、えらく立派に見える、思えるは滑稽では
ないのか、である。

 まず人間は何歳であろうと、いつでも死ぬ可能性がある。
別に即死でなくとも、死を現実に近くに見ることは珍しくな
い。病気など何歳でも死を予測させるようなものはいくらも
あるし、事故でいつ命を失うかもわからない、それは子供時
代から生涯続く変わらぬことだ。さらに、残りの人生の時間
、というなら生まれてすぐに残りの時間はどんどん減ってい
く、ただしその時が不確定なので健康なら、人間はあたかも、
少なくとも壮年までなら永遠に生きられるような錯覚を抱い
てしまう。だが、人間、いい言葉ではなが、執行猶予のつい
ている死刑囚、というのも、確かであろう。ただ意識する、し
ないかだけの話である。

 しょせん人間は基本、70歳から100歳までの生き物であり、
与えられた時間は、誰であろうと実は短い、ただ生命の終焉
の時期が不確定だから、その不確定さ故に、永遠に生きるが
ごとき幻想に浸ってしまう、だが全て執行猶予の死刑囚同然
である。別に現実、生きるのにそこまで思い詰める必要はな
く、あるがままに生きればいい、だけの話である。70歳過ぎ
れば寿命はいつ尽きようと五十歩百歩である。あれこれ悩む
こともない。

 だからこそ、自分なりにテーマを決めて、というと偽善的な
面も出てしまうが、つねに奮闘努力するしかない。同時に、
家族などには常に負担や迷惑をかけないよう務めるのは、別に
年齢など関係なく、日常生活の常識である。とりたてて「終活」
という造語に溺れて何かをやっても、実際は無意味なことがほと
んどである。それなりの法的な整備はあって、とりたてて自分で
なにか姑息を弄しても意味はない。相続は日本特有と云ってい
いほど世界的に負担が重く、また問題を生じやすい。それは国が
国民の負担、残されたものの負担を軽減する努力を怠ってきたか
た、であり、「終活」でどうなるものでもない、ただ子供がいな
い場合、兄弟も法定相続人になるから伴侶だけに相続させたい場
合は公正証書遺言をしておくべき、別に高齢になったからでなく、
何歳で作ろうと自由である。

 自分の身の回りのものが多い場合「終活」概念で少なく、だが
必要なものまで廃棄すべきではない、廃棄など難しいことではな
い、生涯、存分に堪能すればいい。不必要なものは整理するなら、
別段「終活」の問題ではない、日常生活の常識である。

 つまり、あの人は「終活」をやったから立派、と褒めそやすな
ど見当違いと云うことである。半ば言葉の遊びとして「終活」に
絡めて考える必要はサラサラない、エピキュロスのいった「生き
ている限り人間は死なず、死んだら自分はいないから」は当然過
ぎるゆえに、その真理を把握しきれていないのだ。生きる間は、
つまり自分がいる間は、懸命に誠実に生きさえすればいい。配慮
は常識の枠内である。「終活」という言葉は必要ない。

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