中村真一郎『冷たい天使』1955,芥川「藪の中」の手法も現代モノにはあまりに不自然

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 池上広志という小説家が「冷たい天使」というタイトルの
作品を残して自殺する。なぜ彼は自殺したのか、彼を巡る周
囲の人たちはその理由をそれぞれに判断する。池上広志の年
上の妻、また友人のジャーナリスト、先輩の作家、関係して
いた有閑マダム、酒場のマダム、実業家の広志の父親、大学
教授の兄、広志が「冷たい天使」と呼んでいた彼の恋人、こ
Rれらの人達が言う推測、理由がみな違っている。藪の中で
ある。些細な違いでなく、根本的に違っている。

 広志の恋愛についても彼自身が書き残したこと、恋人が話す
こと、二人を知っている有閑マダムの言うこと、それらが全て
違う。食い違っている。真相はわからない。各自がそう思って
いるというだけだ。それぞれをツキあ合わせても、合理的な理
由にはならない。

 中村真一郎は芥川の「藪の中の手法を取り入れたと思う。
重大なことでも、何が真実なのやら、誰にも分からないとい
うこと。どこにも一致点がないバラバラの主観の上に、人間
しゃかいという現実が成り立っている、それを示したかった、
のか、ただ小説の手法上、っそうなっただけなのか、だ。

 だからその執筆意図は、「藪の中」手法でしてやったり、か
もしれない。だがそれが本当に読む者を納得させ得るのか、さら
に読者が思いを巡らすに値するものになっているのか、っそれが
ないのだ。周囲の人達がおよそ真剣に考えていない。それは技法
上、そうなったと思うしかないのだ。だから、いたるところにウ
ソが差し挟まれている。各人の意見と意図的にバラバラにしよう
うという作者、中村の考えだったのだろうが、単に構成の技法上
でそうなったのなら、ではウソの出所はどこだと、読者は思うだ
ろう。平安の時代の「藪の中」ならそれでいいが、現代モノであ
る。根拠なき探偵小説となってしまっている。

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