いつも死ぬ死ぬっていう人間が死んだためしはない


 死ぬ死ぬって、いろんなケースがある。「私の親は両方と
も還暦前に死んだから、私は長生きできないわ」、いつも激
しい頭痛を訴えて「頭が割れそうーじゃ」そんな実母は96歳
まで生きたが、基本的に今にも死にそうで、いつも「死ぬ、
死にそう」で実際、簡単に死んだ人間なてまずいない。そりゃ
,いつかは死ぬにしても、いつも「死ぬ、死ぬ」人間は結構粘り
があるろいうこと、もちろん、絶対は毛頭ないにせよ。

 逆に、自分は健康そのもの、長生きできる、という人は気を
つけた方がいい、あのヨガの達人、藤本憲幸さんは「DANZIKI」
の中でタバコについて「私はいつでもタバコをやめられるから、
タバコをやめようと思ったことがない、タバコは心の憩い」つ
まるヨガの達人だから、半ば不老長寿を達成したかのような
錯覚、思い込みに陥ってしまう、冒頭で「本当に人生はままな
たない、ハイバランスを会得することだ」だが70歳前に亡くな
った。ヨガの達人でも70歳もままならない、・・・例えばであ
る。

 誰であろうと、いつでも死ぬ可能性がある、年令に関係なく、
同時に寿命の宿命も免れない、70歳から99歳までが事実上の
限界だろう、長生きしたって体が満足に動かせ、人生を楽しめ、
生活費にも事欠かない、というのでなければ意味はない、と思
えば実質人生なんて瞬間というレベルと言って過言ではない。
そんな人生で常に「死ぬ死ぬ」と口にする、心で思うのは、い
わば真実に沿った精神というべきである。その真実性でなんとか
人間さしあたり、生き長らえることが出来るのである。

 でも、高齢になって「余命一年」と言われたら、こんな幸福な
こともないだろう。だって思うままに、多くもない預貯金を使え
る、体が動けばであるが、・・・・・思う存分、お金を使える、
これが「もし百歳近く生きたら」と思うと超ケチな生活にならざ
るを得まい。何万年生きても尽きざる預貯金、資産があるなら別
であるが、現実、は使い始めたら10億円だって一人の女性が使い
きってしまうから、しょせん、意味はないわけである。

 話がそれたが、死ぬ死ぬというのは、病気、体調、また寿命の
予測などあるにせよ、「もう生きられない」という予測的な不安
であろう、荒唐無稽な心配性というわけではない。実際、死ぬ可
能性は常にある。だが同時に、人間はそんな弱いものでもない。
簡単死ぬものじゃない、だが死ぬこともあるから、分からない、
という不安も拭えない、・・・・・・・だからどうした、である。
「死ぬ死ぬ」といつも云う人間はやはり、基本、死んだ試しはない
のである。

この記事へのコメント