芥川龍之介『葱』のモデルの宇野千代、その『私の文学的回想記』1972,(中央公論)


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 本郷三丁目の角に燕楽軒というレストランがその昔あって、
二十歳すぎのだった宇野千代がしばらくそこの女給さんをや
っていた、その宇野千代をモデルに芥川龍之介が『葱』とい
う作品を書いた、・・・・・私としたことが、これを知らな
かったのである。青空文庫から『葱』の最初あたりを転載さ
せていただくと

 神田神保町辺のあるカッフェに、お君さんと云う女給仕がいる。年は十五とか十六とか云うが、見た所はもっと大人らしい。何しろ色が白くって、眼が涼しいから、鼻の先が少し上を向いていても、とにかく一通りの美人である。それが髪をまん中から割って、忘れな草の簪をさして、白いエプロンをかけて、自働ピアノの前に立っている所は、とんと竹久夢二君の画中の人物が抜け出したようだ。――とか何とか云う理由から、このカッフェの定連の間には、夙に通俗小説と云う渾名が出来ているらしい。もっとも渾名にはまだいろいろある。簪の花が花だから、わすれな草。活動写真に出る亜米利加の女優に似ているから、ミス・メリイ・ピックフォオド。このカッフェに欠くべからざるものだから、角砂糖。ETC. ETC.
 この店にはお君さんのほかにも、もう一人年上の女給仕がある。これはお松さんと云って、器量は到底お君さんの敵ではない。まず白麺麭と黒麺麭ほどの相違がある。だから一つカッフェに勤めていても、お君さんとお松さんとでは、祝儀の収入が非常に違う。

 とにかく芥川が見ても女給の「お君さん」は恐るべき美人
というわけである。それが二十歳すぎの宇野千代とあらば、
まさに当然ということだったのあろう。

 そこで1972年の刊行された宇野千代の『私の文学的回想記』
も読んでみると、さらにさらにその文学的世界に浸れる。

 燕楽軒と電車道一つ隔てた向かい側に、昔の中央公論社があり、
滝田樗蔭が毎日ランチを食べに来て、宇野千代さにチップを五十
銭置いていったとか、これも実際の当事者でない書けないことで
ある。芥川の『葱』にもそれらしき記述がある。それは大正6、7
年の話、というから1918年から1919年頃となる。宇野さんによれ
ば当時の五十銭は今日、1970年ころでは5000円ほどになるのでは、
というから毎日ランチで5000円置いていくと思えば宇野さんの魅力
が窺える。

 その後、宇野さんは札幌に嫁ぎ!、「時事新報」の懸賞短編に
応募し、特等となった。二席が尾崎士郎、選外佳作が横光利一と
云うからその文学的才能は流石というほかない。それに紀を良く
して宇野さんは130枚ほどの小説を書き上げ、滝田樗蔭のことを
思い出し、そのもとに送った。

 しばらくして上京し、その原稿が気になって滝田樗蔭に面会し
たら、すでに「中央公論」に掲載されていた、ということが分か
った。原稿料390円をもらってあまりにの大金に驚いたという。
50銭が5000円なら390万円!これが大正11年、1922年のことであ
る。

 そこから1972年まで50年間、半世紀の回想記が『私の文学的回
想記』である。まったくほとんど力まず、淡々とした文章だ。1
生まれは1897年だから75才である。とにかく味わいがある。やは
り宇野千代さんは文学の天才と思う。

 宇野さんは自分の過去の生活方針を、その場その場の、いきあ
たりばったりだったと回顧し、しかし、そのときどきで、あるこ
とに熱中し、わきめもふらず突き進む自分自身の性格にも触れて
いる。宇野さんは過去に恋々とするよりは、未来のことを思い描
く方が楽しい、というようだ。

 「中央公論」に作品が掲載されてしばらくして、宇野さんは尾
崎士郎と同棲し、東郷青児、北原武夫というように、次々と相手
を変えていったそうで、多情であり、天真爛漫な楽天的な性格の
発露ということだろうか。

 尾崎士郎と大森の線路沿いの一軒家に引っ越した時、「雨戸を
開けると、縁側のすぐ外を汽車が走って、そのたびに座敷に吊る
した青い蚊帳が風で煽られた」というよに、涼し気な回想だ。騒
音はなにも書いていないのは個性だろう。

 だから別れた男たちへの恨みがましいことはまったく書いてい
ない。別に際限の経過のためではなく、まあ、その作品名からす
ると「別れも愉し」というようだ。

 尾崎士郎との大森馬込での生活だがそれについて広津和郎、榊
山潤、中谷孝雄らが独自の視点で述べているようだ。誰の記述に
も陰湿さがない、これは日本では珍しい。でも宇野千代のあっけ
らかんとして性格と真逆が作品でも顕著だが、女性の怨念を陰湿
な筆致で書き抜いた円地文子となるだろう。

 戦後は宇野さん経営の雑誌「スタイル」が大当たり、だが脱税
問題で倒産、戦後の混乱を象徴の興味津々の話である。でも宇野
さんは誰を恨むでなく、他人事のような回想は日本人の感性では
稀有だろう。「スタイル」などで苦楽をともにした北原武夫との
別れ、淡々たる筆致で宇野さんの優しいお人柄がにじみ出ている。
100歳近くになって「生きていく私」を上梓されたあの積極性、
まったく日本人ばなれと感歎する。見事である。

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