出口裕弘『京子変幻』1972,フランス文学かぶれによる観念の遊戯という全くの駄作


 出口と云うから大本教関係の出口かと思えばまったく関係
なさそうだ。1928~2015,日暮里生まれ、旧制浦和高校で
理科から文科に転科、東大仏文で東大仏文族となった。定年
まで一橋大教授という安定した職を得て作家活動、・・・・
正直、存在感などない作家と思ってしまうが、それなりの評
価を得ている人である。・・・そこで「京子変幻」私はこれは
フランス文学かぶれによる観念の遊戯に過ぎない駄作と断じた
い。

 「いわゆる係累がないという点で私は徹底している方であっ
て、数年前に伯母と思しき人物が世を去ってからは文字通り、
天が下に係累はない・・・・・死へ向かって終わっていく存在
としては、私という人間もなかなか首尾が整っているというべ
きだろう」とか云う冒頭、最初から気障なイヤミすら感じる。
だが作者は日本人離れしたというのか、主人公の自在の観念的
生活を予告しているかのようだ。作者はフランス文学的なもの
をこの湿っぽい日本で実現しようと相当に練ったかもしれない。

 登場人物は、ダリというアダ名の主人公の唯一の友人、その
息子のダリ・ジュニア、さらに主人公が橋の上で知り合ったと
いう京子という得体のしれない女、と少ないが構成は何とか存
在しているようだ。またフランス文学に入れ込んでいるため、そ
の文体は翻訳的で洒落てはいる。

 ・・・・・・・ということなのだが、文学性の内実、中身は
唖然とするほど希薄と言わざるを得ない。言葉の遊戯かと思え
る観念的なそれなりのゴージャスさを取り除けば、いったい何
がそこにのこる?というほかない。内容の本質は凡俗で退屈だ
が、主人公の生活自体が単に怠け者の物書きで、ただ時流に流
されて生きているに過ぎないようだ。

 主人公が仰々しく語るダリの賭博的生活、その息子の17歳の
ダリ・ジュニア、父親によれば悪魔というほかない冷酷ぶりも、
何の具体的イメージすら湧いてこない。タイトルが「京子変幻」
タイトが実態を詐称している、「変幻」は主人公の勝手な観念
の遊戯ではないのか、である。主人公は京子とポルノ小説を共
作するという、これなど面白そう、でもわからない、一言、駄
作の一語に尽きる。澁澤の残渣だけを真似ている。

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