「自分探しの旅」か「終活」か?


 「自分探しの旅」が具体的に何を意味するのやら、自分に
秘められた可能性、別に立身出世などではなく、どこまでも
内なる可能性の追求、という定義でないと実際の意味をなさ
ない。内面の可能性だから年齢も関係はない。別に金儲けの
才能も否定できないが、やはりそれは方向が違うと思える。
実務的にはおよそ救いがたい、鈍物、それは分かり切ってい
る。現実はことごとくダメ、でもそれは「自分探し」のそも
そも範疇に入らない。生きれば生きるほど自分は無為無能に
して非才な人間と思い知る、・・・・だがそのようなことは、
早い段階から分かっていたことである。自分探しとはダメな
自分を要領のいい小回りの効く人間に仕立て上げることなんか
じゃない。自分、すなわち夢、現実に可能かどうかではない、
自分=夢なのだから、たとえ幻想でもいい、一歩前進でもいい、
その夢の中に自分を置くことである。自分探しの自分とは万が
一にも実務的な意味合いではない。現実の才能の有無でもない、
そんな通俗を超えた一度限りの人生のエンドレスの夢、幻想の
追求なのであるから。

 だから「自分探しの旅」はある意味、何歳になろうと関係は
ない、最後の一秒まで可能、と云いたいが有限でも人生は悠久
である。

 そこで終活、とみによく語られるが、就職活動に対し、「人
生の終わりのための活動」だそうだ。人生が終わる可能性は年
齢に限らず常にあるが、寿命は人間、まず99歳までと思えばよ
く、端的には70歳から99歳までが人の寿命である。日本人男性
なら70歳までに18~19%亡くなり、75歳までに25%近く亡くな
り、80歳で50%なくなると思えばいい。平均余命など意味はな
い、だから残り年数は?と思えば過去を思えば10年前なんて昨
日みたいなものだ。それを未来に変えたら、そこまで生きられ
るかは至難、もう終わったようなもの、・・・・・だろうか。
一年は束の間、それが二桁の人生なんて束の間で、どんな人間
もまずそこに収まる。「終活」など何歳からでも心得ておくこ
とであり、強いて意識などする必要はない。

 要は人生、自分、すなわち、夢と幻想、それを精一杯、追い
求めることに尽きる。実際上の意味、実利などあり得ない、現実
の自分の社会的評価も関係はない、どこまでも内なる夢に心を託
す以外に人生はない、否定的に自分を見ても仕方がない、赤点連
発?高校時代、よくある話だ、頭など悪くて結構である。・・・
云うならば人生は有限としても尽きることがない、それを我が身
の、心のなかにキープして、幻を追えばいい、人生にあきらめ無
しとはこの意味だと思う。

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