井上靖『射程』1957,井上靖の現代物では傑作、戦後派の若者の野望と瓦解、終戦後の世相を見事に描ききる

井上靖の作品はとにかく多く、「中間小説」という半ば
揶揄でもされているような現代物がまた多い、正直、それら
を読んで「またか」と思わせられることも多いが、この1957
年の『射程』は私が実は中学生の時一気に読んだ。まさに、
引き込まれてしまった。最後の部分は主人公が自殺の薬品を
知人に依頼する、知人は電話で「カリだな」、とにかく印象
深い。井上靖の現代物、というのか山岳物だが『氷壁』がや
たら評価が高いが、わたしは『射程』だと思う。その構成、
文章の緊迫感がすごい。それと個人的には『黒い蝶』が好き
だが、やはりベストは『射程』だ。
戦時中、輸送船に乗りんでいた諏訪高男は子供時代から、
全く馴染めなかった父親と大喧嘩をして、芦屋の実家を飛び
出す。あてもなく大阪市内をさまよい、睡眠薬自殺を図った
が、警察に保護され、一命を取り留める。それが終戦の年の
冬であり、高男が22歳のときである。
大阪駅前の焼け野原を、あてもなく歩いているうちに、一
人のヤミ屋の女と出会う。で、女がネグラとする焼け残りの
土蔵の中で一夜を明かす。この「土蔵」がいかにも伊豆の山
の中の土蔵でオバアサンと一緒に育った作者らしい。女は高
男に、彼は女性が惹かれる容貌の魅力があること、強運の持
ち主ということを予言者のように云って聞かせた。
その日から高男の闇屋の生活が始まった、といって一人で
闇屋ができるわけもなく、父親の知り合いを利用し、そこか
ら闇物資を引き出して儲けるというやり方だった。そのうち
に闇屋仲間の紹介で紡績会社の重役を知り、そこから綿糸を
調達し、大きな闇取引となった。そこで儲けた金を二世のア
メリカ人と組んで進駐軍相手の貿易会社を始める。
毛織物を横流しし、その金で闇ドルを操作し、ついに数千
万円の巨額の金を得る。
タイミングを見計らって高男はその二世と手を切って、今
度は大阪の丼池で毛織物の問屋を始める。これも順調以上で、
成功を収める。やがて彼は億の金を手中にしようと野望を膨
らませる。買い占めた毛織物が朝鮮戦争の特需の失速で、毛
織物の相場が暴落し、逆に莫大な負債を背負い込んだ。もは
や無一文の絶望に陥った高男は知人に自殺の薬品を電話で求
める。知人は「カリだな」と、・・・・・
大阪毎日に戦時下も勤務し、終戦後も在籍した井上靖は大
阪を熟知している。この『射程』では主人公の6年間という
長きにわたる人間の歴史を、本当に見事に記述している。また
井上文学の要素もやはり確実に見られる。終戦後の闇で稼いだ
若者の上昇と没落、だが闇取引の実態を考えると、どうも、そ
れはあり得ないのでは、と私ですら思ってしまうが。でもよく
調べているのは事実だ。とはいえ、紡績会社の重役と知り合っ
て綿糸を調達できた?あの時代でも、ちょっと無理だと思える
が。まして若造がである。
井上文学の最大の要素「女性思慕」!はこの作品でも顕著で、
三人の女性が絡む。闇商人の妻、だらしない女だが、高男はこ
の女を憎みながらも闇ルートへの手引の感謝で肉体関係を持つ。
もう一人は紡績会社の重役の娘、まだ成熟しない少女というべ
きこの女と高男は結婚する立場にはめられてしまう。だが高男
が崇拝的な愛情を持つのは子供時代から知っている10歳も年上
の女性なのだ。「しろばんば」の身二つになって嫁ぐあの女性、
「あすなろ物語」の福岡に実家を持つ金沢の女性、枚挙に暇が
ないが、ちょっと女性に甘すぎる感情を懐いていて子供心にも
笑える部分はあった。つまり井上文学の類型的女性である。そ
れがシチュエーションでどうにでも変幻自在だ。
だが『射程』は類型的女性さえ、実に見事に描かれてると
感じる。最初の部分の大阪駅前の焼け跡風景の描写は歴史的
にも貴重だ。でも最後まで高男の生態の背景は分からない。
女性を描くほど、描かれていない。・・・・・・がその緊迫
感ある展開は井上文学の現代物では随一だろう。
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