ハインリヒ・ハラー『チベットの七年』中国共産軍侵入以前のチベットを描く、著者の恐るべき行動力と粘り、チベットへの愛情
チベットがなぜ中国?つまり侵略、占領されたということで
ある。領土欲の塊の中国は自らの絶対的な領土と言い張る。そ
の軍事力を考えればどうしようもない現実がある。この本は戦
後、中国共産党の軍がチベットに侵入前の、第二次大戦時代か
らの貴重な体験談である。
著者はオーストリア人のハインリヒ・ハラーである。登山家
で、アイガーの北壁に初登頂に成功したという無類の行動性、
突破力、粘り、精神力、がこの本の体験を可能にした。
1939年、ナンバ・バルバットの偵察を終え、故国に連れ戻し
てくれるという貨物船をカラチで待っている間に第二次大戦が
勃発し、仲間とともに枢軸側ということで英軍捕虜収容所に放
りこまれた。
著者のハインリヒ・ハラーはヒンディー語、チベット語、日本
語をそこで勉強したという。次に遠征隊長のペーター・アウフシ
ュナイダーとともに中央アジアに関する本を読み漁って地図も写
し、脱走の機会を狙った。数回失敗の後、1944年5月、ガンジス
河畔の収容所を抜け出してチベットとの国境に向かった。
ハラーらの一行はインド人に変装、飢えと寒さに悩まされなが
らも、隊商の中継地を頼りにヒマラヤを越えて、チャンタンク高
地を東に向かった。ビルマにいる日本軍に救うを求めようとした
が果たせず、翌年1945年1月にチベットのキイロン村に着いた。
1945年11月までここに滞在したが、欧州では大戦は終わったと
聞き、急いでチベットの首都のラサを目指して出発、途中で山賊
に遭遇し、唯一の頼りのヤク(偶蹄類)を奪われ、極寒と寒さに悩ま
されながら、1000キmもの流浪の旅を続け、1946年1月中旬にラサ
に到着した。
チベットの貴族はこの二人の逃亡者を厚遇し、居心地のいい部
屋を用意、新しい衣類一式を贈呈、遠慮して部屋に閉じこもる彼
らに外務大臣は自由に外出していいと許可を与えた。チベットは
万国郵便連合に加盟しておらず、郵便での外国との連絡は取れな
かった。だが英国ミッションの好意でやっと故国の家族に連絡で
きた。
チベットの幼い君主、ダライ・ラマの両親に招かれて、政府の
高官や著名人を訪問し、チベットの生活について多くの知識を得
ることができた。著者が酷い坐骨神経痛で苦しんでいるときに、
チベット政府はこれ異常滞在許可はしないからインドに行くよう
に命じた。インドへ逆戻りするなら中国領に行こうと考えたが、
英国軍医の書いてくれた診断書により、政府は滞在を黙認し、そ
のうちチベット政府も著者らのことを忘れてしまった。
まもなくアウフシュタイナーから、チベット高僧の一人から、
ラサ郊外に灌漑用の運河を作る依頼を受け、著者らは王室直属の
僧院の造園も頼まれ、退去命令は二度と出されなかった。さらに
発電所の修理を相談され、、またテニスコートを造成して社交界
にテニスを紹介、またアイススケートも教え、噴水も制作、二人
はラサの人気者となった。ダライ・ラマに拝謁を許され、間もな
く著者はその教師に任命された。
宮殿に映画室を設け、インドから劇映画を輸入しようとした。
だが若いダライ・ラマは、娯楽映画は好まず、教育的、教養的な
ものだけに関心を持った。著者はダライ・ラマの生活姿勢が禁欲
的で孤独、何日も断食し、静坐を好んだ。
かくして5年近くの歳月が流れたが、突如、中国共産党軍がチ
ベットに侵入してきた。あらゆるもの、特にチベット仏教を否定
し、政教一台の体制を破壊した。著者らはインドに脱出、十数年
ぶりで故国に戻ることができた。
ヒマラヤを越えて脱走の記述は、非常に冒険と迫真のスリルに
富んでいる。ラサでの5年間はチベットを世界に紹介する貴重な
体験だった。ラサで一旗揚げるのは簡単至極だという、何の苦労
もなく、ひと財産ができるという。牛乳工場でも製氷事業でも、
造園業、時計屋、靴屋、医者、何でも成功できるという。その
時点までは企業家の天国だった、という。男は僧院にはいるから
女は余っている。だが、男は妻を他の男と共有する。死後は財産
が全て妻のものとならぬよう、息子が妻の夫となるように取決め
ている、というから驚き。異様は風俗習慣だが、親愛の情には篤
い国民性であるという。
最後に著者は
「冷淡な世界からほんの僅かの友情しか得られなかったこの
平和と自由を愛する国民のために」自著がいささかでも貢献で
きたらと記している。
しかし中国の圧倒的な軍事力で支配され、文化を破壊され、
自由を失ったチベット人、国さえ失ったのである。
Heinrich Harrer 1912~2006とダライ・ラマ
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