丹羽文雄『庖丁』1954、料理人の世界で描く愛欲図、戦時下から終戦後の時代背景

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 たぶん、「サンデー毎日」に連載されて単行本になった作品
である。料理人の世界を描くが、無論、食通の丹羽文雄でも、
では現実の料理人の世界にどこまで通じていたのか、細かい部
分まで知り尽くさないと小説など書けないと思うが、資料提供
があったのかどうか。だがこの作品は丹羽作品では読まれない
。本当に読まれない作品だと思う。まず知られていない気がす
る。本も入手難である。時代は実は戦時下である。読者が「板
前」の世界を正直、ちょっと辛気臭いと感じるのも理由かもし
れない。

 料亭の「千樹」の板前の山名直規は三十歳に手が届かない年
齢だが東京の板前でも十本の指に数えられる腕前の持ち主だっ
た。師匠の八代親方の自慢の弟子だった。

 山名は亡くなった父親が経営していた日本橋の料亭「花由」
の再興が夢であり、そのため大学進学も断念し、板前の道に入
った。だから成り上がりの板前ではなかった。

 「千樹」の女中のお雅が山名の身の回りの世話をしていた。彼
はお雅を難からずと思っていて、結婚してもいいと考えていた。
同じ板場の焼方の(注釈、板場は上から純に板前、次板、煮方、
焼き方、揚げ方、洗い方、追い廻し)の房吉は仕事はさっぱりだが、
小金を貯めてそれを女中衆に貸しては利息を取っているので山名
からは軽蔑されている。だが房吉はどんな腕のいい板前でも板前
なら生涯、使用人の身分であり、、だが自分は独立し、事業家に
なるという夢を持っていた。

 この房吉もお雅が好きだった。お雅には肺の病があり、生活苦
にあえいでいるのを見て支援をたびたび申し出て、かえってお雅
に警戒され、いやがられていた。

 「千樹」の常連の客、押小路は食通として山名に尊敬されてい
たが、娘の結婚披露宴を「千樹」で行い、山名の精魂込めた料理
は押小路らの絶賛を浴びた。だが披露宴の最中に山名に赤紙が舞
い込んだ。その夜、入隊の壮行会のあと、山名はお雅と関係を結
んだ。「きっと帰ってくるから」と誓った。

 お雅は戦地の山名に頻繁に手紙、慰問袋を送ったが、そのうち
山名の消息が途絶えた。一方、「千樹」ではあすます房吉が軍部
に取り入り、ついには「千樹」が軍の寮となってしまう。女中や
板前をすべて取り替え、お雅を女中頭に据える。お雅は不本意な
がら房吉からの便宜を数多く受ける。

 やがて終戦、房吉は戦時中に溜め込んだ物資を元にしてヤミ成
金となる。お雅は房吉の熱意に折れてしまって夫婦となる。房吉
は幸福の絶頂にあった。

 七年目に山名は帰国、だがお雅が房吉と夫婦となたことを知っ
て愕然とする。「千樹」も空襲で灰燼に帰した。女将も死んだ。
彼は八代親方を訪ね、その世話で連れ込み的なホテルの板前とな
る。板前は調理師と呼ばれるようになっていた。

 房吉が勤務のホテルで「大切なお客だ」という主人の命令で
腕によりをかけ、料理を作る。その客は房吉、お雅の夫婦だっ
た。房吉も驚いて手をついて山名に挨拶をした、山名はさんざ
んに罵る、山名はホテルの暇を取ってむしゃくしゃし、帰る途
中、新宿の飲み屋で偶然、落ちぶれた押小路に出会う。

 お雅は自分の安定も多くの犠牲の上に立っていると悟り、房吉
に離縁を迫るが、房吉の熱意に負けてしまう。山名は八代親方の
世話で今度は料亭「頼母」の板前となるが、料理の板前の世界が
旧来の部屋制度に依拠しているのを改め、近代化したいと熱意を
抱く、でこの物語は終わるが、・・・・

 ストーリーは実に見事な気がする、連載だから特に興味を後に
つなぐ、という点で実に上手いが、上手いがやはり板前の世界と
いういわば特殊な世界、その内部事情、しきたり、を丹羽さんも
お仕事柄、料亭経験が豊富なのでそれを活かして?でも丹羽さん
が料理の世界にいたわけではないから、その描写、表現はどう
も、ちょっと不十分という印象、料理の専門的知識もお持ちでも、
しょせんは異次元な世界でしっくりいかない、いかないから得意
の愛欲の世界を描く、「部屋制度を近代化」となると、なおさら
その過程が不自然さを受けてしまう。だから本筋は男女の愛欲図
といっていい、・・・・・だが流石に丹羽文雄は知らない世界を
ここまで利用して作品を組み立てる腕、頭脳はやはり『文学者』
主宰者、瀬戸内寂聴さんも河野多恵子さんも発掘、・・・・・
の実力だろう。

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