間宮茂輔『広津和郎』1969,50年に渡る親密な付き合いの強み、「第三の妻」として「はま」を紹介
サブタイトルは「この人と五十年」、どこまでも実際の
親密な長期に渡る付き合いに基づく評伝である。半世紀に
わたって、一人の後輩として、師弟関係という間柄でもな
いが、肩肘張らない付き合いならばこそ、知り尽くしてい
る実際の姿の広津和郎、その強みである。ずっと親密、一
辺倒でもないにせよ、基本的に五十年間、広津和郎の後を
ついていった後輩として、現実の姿、その内面をも見守っ
てきた人の書く評伝だからこれは何よりの真実性だろう。
広津和郎の評伝的書籍としては文学史家の橋本美智夫の
『広津和郎』明治書院、が著名だが、両書を比較すればま
さに歴然たる相違がある、のも仕方がないことで橋本迪夫
の著書は現実の広津と全く接触もなかった、おおマジの勉
強家、資料を徹底して研究しての結果が橋本の『広津和郎』
なのだ。無論、普通はこちらだろうは、どこかでも机上の
研究という資料依存である。だが間宮茂輔の方はどこまでも
実際の長い長い付き合いからの結果だから圧倒的な強みがあ
るのは否めない。それでくやしくてその後橋本が「広津和郎
再考』なる著書を出した?のかもしれないが、広津和郎にそ
れほど関心を持つ人ってお世辞にも多くはないだろう。
さて、間宮著『広津和郎』の序文
「広津さんが谷中天王寺の墓所に眠ってから一年近くにな
る。先に逝った生母・寿美、父・直人(広津柳浪)、息子・賢
樹、第二の母・潔子、長兄・俊夫、最も深く愛した第三の妻
・はま、こういう近しい人達の持っている久遠の安息所に、
広津さんはリューマチの痛む足を引きずりながら、やっとの
思いで辿り着いたといえるであろう」
ここで「第三の妻」?大マジでブッキッシュな橋本迪夫の
『広津和郎』の巻末には勉強家の橋本の綿密な調査による年
譜が付されているが、どこにも広津和郎が三度目の結婚をし
たなど載っていない。最初の結婚に失敗、長男長女をもうけ
ながら、そこ結婚生活を自らぶち壊し、はま夫人と結ばれた。
ところがその実態を誰よりも知る間宮は「はま」を第三の妻、
三番目の妻としている。では二番目があった?最初の結婚生活
からその行き詰まり、広津は大正8年、1919年の春から夏にか
けて信州からなならへの三ヶ月の旅行。それは橋本の年譜にも
ある。
その旅行に広津が若い愛人を同伴させていた、も周知の事実。
まあ、広津の弱点は女性関係で、うまく切り上げることが出来
ない、志賀直哉は見かねて福田蘭童に「君は女性の処し方を心
得ているんだから、広津に一つ、教えてやってくれ」と云って
いるくらいだ。・・・・・随伴の女性を主人公に広津は『お光』
などの私小説をものにしている。それを見て葛西善蔵も『遊動
円木』を書いている。
その女性が広津の父母と同居し、大正12年、1923年に芸術社
が潰れるまでの前後まで、第二の妻として広津にいたってかしづ
いていた。だから、その後の「はま」を三度目の妻と間宮が云う
わけで大した話でもない。
広津の兄が気が狂ったことは知られているが、その最期を記し
たのもこの間宮著が最初だ。また芸術社倒産後、囲碁将棋の出版
社を創業したことも記している。つまり通常の研究家が資料を漁
ってでは知り得ないことを数多く書いている。
無論、現実に長く付き合ったのだから当たり前だろう。しょせ
ん作家を知るのはその作品ということに尽きる。広津和郎の公私
を見事に統一、までには至らないのも人のなすことである。
間宮茂輔、まみやもすけ、1899~1975,慶応中退、戦前はプロ
レタリア作家、特高に逮捕され、転向、戦後は共産党系の文学団
体に所属、

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