佐藤春夫『小説・高村光太郎像』1956、智恵子絡みの篇だけ有意義で面白い

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 この本は別段「高村光太郎」をテーマとした一篇の長編
小説ではなく、「高村光太郎」についての三篇の短編を合
わせて収録したものだ。古書で入手は容易である。佐藤春夫
が描く高村光太郎だから一味以上は違うはず、とつい思って
しまう。

 明治の末年に外国留学から帰国、「立派な工房も程なく
出来て、気楽な親がかりの身分に見える光太郎も、あれで
相当困っている様子が見える。それに工房ができた手前も
あって、家庭に対し、何かしら新しい仕事を見せる義務も
あるだろう」との思惑で光太郎の友人が「油絵頒布の画会
を企てた」・・・・・光太郎を尊敬し、むしろ盲目的に崇
拝していた青年時代の佐藤春夫はこの画会に即座に入会し、
肖像画のモデルとなって光太郎の工房に通う。その間の思
い出を綴ったのが『ばけもの屋敷』、『新しい工房にて』
、『モデルの三週間』という三つのタイトルが付けられて
分かれている一篇である。

 パリから帰った光太郎は「黒い絹コールテンの背広に
麦わらのカンカン帽を戴いた見慣れないボヘミヤン風俗」
であり、「人には構わず自由な生き方」をしていた。「吉
原河内楼の花魁の若太夫に失恋」して『失われたモナリザ』
とか『地上のモナリザ』などという詩も書いた

 その光太郎が「悪夢からけろりと覚めたように、その生活
態度も詩境も一変した」のは、ひとえに長沼智恵子を知った
からである。智恵子は東北の酒造家の娘で、女子大を出て、
当時の進歩的な女性グループ「青鞜」に参加していた。

 で「清純で素朴な智恵子の気質」は光太郎に大きな影響を
与えたという。やがて智恵子は精神異常に陥る、光太郎と二
人で裏磐梯のススキ野に腰を下ろしていた彼女は「わたしは
もうじき駄目になる」と囁いた。「やがて、我が身から抜け
出そうとする魂を予知して、その別れを惜しむかのような声
をあげて泣き始めた。いつまでも泣き止まない。この童女の
ような智恵子を光太郎はなだめる術もなく、悲しい二人とは
関わりなく、明るい八月の北国の空に瞳を放ち、末遠く波う
ちなびくススキを渡る風を見入るばかりであった」

 病院で智恵子が死ぬまでの六年以上の光太郎と智恵子の
愛情を描いた篇が『新帰朝者光太郎』『仙女智恵子』の二つ
のタイトルに分かれているもの、智恵子と光太郎の絡みだけ
に一番面白く興味深い。

 最初の一篇は佐藤春夫の光太郎についての思い出が重点で
あり、光太郎自身には深く考察がなされていない。作者の若
き日の思い出というべきか、それと比べると智恵子絡みの二
篇は智恵子という魅力ある女性を通して、光太郎という人物が
生彩を持って述べられている。佐藤春夫にうってつけの題材と
いうべきか、

 最後は『山林孤棲の人』、『湖上の人』であり、岩手県の
山村に疎開していた光太郎が戦後東京に戻って、十和田湖の
ほとりに建てられた女人像を完成し、間もなく死ぬまでを描い
ている。小説というより評論、評伝だろう。

 光太郎が戦犯ではないかと批判した人に対し、かれらは「
時勢に便乗しただけであり、アメリカの謀略の手先のようなも
の」と決めつけ、「そもそも光太郎に開戦の決定権などなかっ
たし、始まった戦争を阻止し得る立場にもなかった。ああいう
状況で国を熱烈支援以外、いかなる生き方があったのか」とこ
れは絶叫めいている。

 佐藤春夫はよく描けているが、光太郎はさて?と思える内容
だろうか。光太郎に深く入り込んだ文章ともいい難いのはちょっ
と残念至極、だが文章に鋭い指摘もある。惜しい本というべきだ
ろう。

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