林房雄『文学的回想』1955,この時点では左翼も右翼も棄てて隠遁の意向さえ示す、
プロレタリア作家として出発、弾圧され転向、戦後はまた
元に、でなく1964年に「大東亜戦争肯定論」で話題をまいた
ほどに完全なる右翼保守派の道を。で1955年、昭和30年に新
潮社から出た『文学的回想』古書で入手できるが、えらく高
価だ。・・・この出版時点で小説を書き始めて30年近くなっ
ていた。ここに至った道のりを、遍歴をと作家生活を回顧し
た「貴重」な書物である。なお1903~1975、
林房雄は熊本の旧制第五高校に入学した時点で文学者の道
を志していたという。そこで当時、共産主義理論を信奉の東大
の「新人会」の遊説隊が来熊、たちまちその「神聖な狂気」に
感動し、文学青年と云うよりは共産主義者になった。大正12
年、1923年に東大法学部政治学科に入学したが、「正確に言
えば、大学ではなく『新人会』に入学した」ということで、新
人会および学生連合会の共産主義運動に狂奔し、「党理論家の
一員に加わり得たような気持ちだった」そうだ。
で共産主義に夢中だった林房雄が再び文学に近づいたのは、
その機関誌「マルクス主義」に軽鎖された福本和夫の論文が、
非常なセンセーションを巻き起こし、林が「理論家としての
自信を完全に失った」ためであり、同時に運動も文芸運動を
必要とする情勢となっていたことも手伝った。
その結果、最初の作品は小説というより、思想的な散文詩
というべきか、「絵のない絵本」というアンデルセンの作品名
そのままという、いただけないものだった。次に、オルグとし
て北海道に行ったときの体験をおとにした「林檎」が大正15年、
2月号の「文芸戦線」に掲載され、実際はこちらが先に活字に
なった。ところが大正15年3月に「京大事件」に連刺し、その
未決監獄での経験を書いた「N監獄署懲罰日誌」が「新潮」の
新人特集に加えられて、林はいっそう作家生活に本腰を入れた。
だが林が気負ったプロレタリア文学運動も、分裂し、党派的
争いと共産主義者の醜悪な謀略を見せつけられて、「自分はも
はや、このような政治運動には向いていない」と思い始めた。
京大事件に連座しての刑が確定し、昭和5年の夏に入獄、昭和
7年、1932年4月末に出獄、このころになると小林多喜二のよう
に「共産党の兵卒になるよう自らを鍛える」は自分の進む道で
はないと悟り、伊藤博文と明治維新の前夜を書いた「青年」を
出し、その三年後につに「転向声明」を発した。
「ニ十代の私は左翼であり、三十代から四十代初めまでの私は
右翼であった。青年革命家を気取り、愛国の闘士をもって任じて
いた。どちらの陣営の内情も自分の目で確かめた。今はもうどち
らの陣営にも戻りたくない。どうせ役には立たない」、
『虚無の虫は私の心の中に深く食い込んでいる。私の心の指針
はもう前方を指差すことが少なくなった。動揺しながら絶えず逃
避と隠遁の方向を指し始めた」
林がプロレタリア作家として活躍していた頃、一時同棲したと
いう新劇の女優、花柳はるみについて
「彼女の不幸な情事の数々は、彼女がプライドを持ち、常に純
粋な男を求め続けたことに起因している。男の浮気を絶対に許さ
ないということで、それで逆に彼女が男を次々と取り替え、世間
に淫乱な女だとの烙印を押さしめた」、だがこれは林にも妥当す
るものではないか、林がその才能と自負と情熱のおもむくまま、
自由に振る舞える場所を求め続け、度々の路線変更で裏切り者、
卑怯者という烙印を押されたのであるから。
林は妙な「人なつっこさ」があって、それゆえに、毒舌を弄し
ても相手を本気で怒らせないというこおtになるのだが、常に
才気に走って本当にどっしりした落ち着きがない弱さにもなる
というほかないだろう。革命家にはなりきれず、理論家にも徹す
るなど出来ない。反省の言葉が多い、つねにそのような言葉が、
この本に数多く乱舞している。逃避、隠遁に憧れ、西行や芭蕉ま
で引き合いに出して、・・・・・結局、また右翼に戻ったのであ
る。
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