アグネス・スメドレー『偉大なる道、朱徳の生涯とその時代』岩波、端的に言って朱徳は大した野郎、人間的な伝記

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 中国近代史、特に中国共産党にまつわる著作で知られる
アメリカ、女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレー1890
~1950、Agnes Smedley、の代表的著作である。1955年、昭
和30年に岩波書店から阿部知二による翻訳が刊行され、以来、
岩波は長くこの著作を出版し続けており、現在は岩波文庫の
青版である。まず著者アグネス・スメドレーだが、1890年に
オクラホマ州に生まれ、第一次大戦中、NYコール紙記者とし
てインド独立運動を支援、のちにやはり新聞記者として中国
に渡り、革命運動の支援に当たった。ゾルゲ事件にも関与し
ていたという。1950年にロンドンで客死、「女一人大地を行
く」、「中国は抵抗する」などの著作もある。パールバック
と並ぶ親中国の女性文化人である。

 文革の嵐もくぐり抜けた朱徳、確かに毛沢東、周恩来と
並ぶ中国共産党の三巨頭であるにせよ、日本人にはいまい
ち、具体的に知られていない朱徳であると思える。

 「偉大なる生涯」は朱徳の伝記である。四川省の奥地の貧農
の家に生まれた朱徳、当時としては新しい教育を受け、ついで
雲南軍学校に入ったところから始まっている。そこでひそかに
革命運動の秘密結社に加わる。その後の朱徳の一生は1907年に
始まった中国の革命の大道をそのまま歩み続けたわけである。
その60歳の誕生祝のところで終わっている。

 スメドレーは中国近代史の中国革命の研究家としては世界的
人物と評価された女流作家、評論家である。彼女自身も貧農の
生まれであり、そのゆえか、生まれついて批判精神が旺盛であ
り、一種の反逆児でもあった。それゆえ中国民衆の苦難、中国
革命への深い関心と同情に満ちていた。その執筆の資料は、19
30年代の後半中国共産党指導者たちがまだ潜伏的な洞穴生活を
やってえいる頃、直々にスメドレーが朱徳の口から聞いた事柄
がメインであるが、一面、著者が朱徳に惚れ込みすぎていると
いう批判もあり得るかもしれない。ただそれは。深い共感に基
づくものであり、、単なる歴史的な記述、個人的評伝を越えた
情熱に溢れたものとなっているといえる。

 スメドレーー自身が「水滸伝」を想起する、という波乱富ん
だ朱徳の生きた軌跡、とうてい簡単に要約できるものではない
が、まず幼少時代の生活とその背景、第二に青年軍人の朱徳が
「片方の足は未来に足がかりを求め、片方の足は古い秩序に
置いていた」と自ら語る、雲南護国革命軍の時期から、ドイツ
外遊時代を経て、筋金入りのマルクスレーノン主義者となるま
での経過、第三に帰国後、毛沢東との歴史的な出会い、江西
ソヴィエト地区の建設への超人的活動、第四はあまりに有名な
1934年から1936年に及ぶ革命軍の長征、大移動であり、これは
一篇の叙事詩となっている。

 だが出色は幼少時代の記述だ。収穫の七割は地主に取られ、
さらに小作農の男女は「古来の封建的不文律で地主のために
タダ働きさせられる」、「母親は全部で13人産んで、末の5人
は生後すぐ、水につけて殺した、貧困で養える道理はなかった」
とある。

 漢字文化の中国だが、高すぎる文盲率、科学教育のかけらも
ないような教育、「日本も満州も朝鮮も中国海軍も全然知らな
かった。敵は地主、役人、徴税請負人くらいだった」という狭
い世界にいた。新教育を受けた朱徳が体育教師になった時、彼
への攻撃は理不尽だった。
 
 中国列強の中国植民地化は強まるばかり、こうした中でも、
かって匪賊とされた太平天国の農民革命の精神はなお民主に生
きていたというとのようだ。やがて新たな革命の機運で生来の
「不正への怒り」の精神は成長する。

 だがその後の抗日戦争以後の部分は、従来の既存の資料に依拠
しているようで人間的要素は消え失せ、なにか色褪せている気も
する。取材時点の情勢の制約もあったのだろうが、・・・・・
全体として好著を裏切らないだろう。日本は特に中国共産党嫌い
が多いので反発もあるだろう、だが実際の彼らの舐めた苦難の
深刻さは現在の日本人が想像できるレベルではない。端的に言え
ば、朱徳は大した野郎、ということになる、絶望、懐疑から阿片
に走ったこともあるという。決して礼賛一辺倒の伝記ではない。
好き嫌いは仕方がないが、中国共産党がこの世から消えることは
まずないのだから、隣国として付き合い方は超重要な日本、こ
の本くらいは読んでおきたいものだ。

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