佐多稲子『塑像』1966,著者の日本共産党からの除名事件も織り込む、政治と文学の関係を問う

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 この作品は至って地味で知られていないと思えるが、時期的
には山崎豊子の労音と共産党の関係を扱った「仮装集団」と共
通のテーマが見られると思える。「仮装集団」は「政治と芸術」
芸術を隠れ蓑にした日本共産党の拡大の道具としての「労音」
を半ば告発している。対して佐多稲子は戦前からプロレタリア
文学でならして来た作家であい、古くから日本共産党を「我が
家」とさえ呼んできた佐多稲子だ、だが1964年、昭和39年に
「我が家」の日共から除名された佐多稲子、それなりにショック
だったのかどうか、

 私小説的な作品とも言える。

 主人公の安川友江が軽井沢から孫の脇太(変な名前と思うが)
を連れて、桜内操らと東京に戻る、と爽やかそうに綴る場面か
らこの小説は始まる。幼い脇太は心臓外科手術の予定だが「こわ
いよ」と泣く。母親の「かおる」はバレリーナ、その母親と友江
の心模様は鮮やかに清らかに美しい印象だ。

 幼い孫の手術は成功し、生を取り戻すが、友江の友人、桜内操
はガンで亡くなっていく。操は戦争未亡人だが、彼女を伯母さん
と呼ぶ狭間良彦ともう二十年も結ばれていた。とにかく明るく振
るまう操と孫の対比で思わせぶりに生と死の運命を提示するかの
ようだ。

 なのだが、ここでは日本共産党から友江が除名される件が織り
込まれている。

 「階級的と人間的ということが、彼女の胸の内で交錯し、友江
はそのもどかしさで舌をもつれさせていた」、

 部分的核実験停止条約への賛否から、前衛党を除名された幹部
の選挙の応援に立った友江の胸中だ。友江もまたそのとき除名さ
れた10名の文学グループの一人である。

 それを「組織のエゴイズムであり、人間としての裏切りであり、
幼稚な闘争主義」と斬り捨てる。30年も前に、街頭の連絡もやっ
た王子方面の工場地帯を歩きながら、友江はしみじみと思いにふ
けるのである。

 友江自身も、老母とふたり暮らし、所帯を持った三人の子供
の孫の世話をする年齢となって、いよいよ人生を深く吟味しよ
うという趣なのだ。

 人生、人間をしみじみ探求の背後の問題が日本共産党からの
除名では生臭すぎるが、政治と文学、政治組織と人間との微妙
な関係を吐露した作品であるが、忘れられた作品となってしま
った。筆致はさすがになめらかだ。

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