晩年の三島由紀夫の川端康成憎悪、否定を生んだ稲垣足穂への傾倒

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 晩年、といって中年でしかないが、三島由紀夫こと平岡公威
があの稲垣足穂に異常に入れ込んでいた。その文学、芸術性に
ぞっこんだった。どこでそう、いつから、はよくわからない。
著作をたどれば探るだろうが資料は乏しい。もう一つ、晩年の
三島由紀夫が急速に川端康成に否定的になっていたことも紛れ
もない事実だ。だが稲垣足穂は川端康成を徹底的に否定してい
た。ある対談、大橋巨泉だったか、「日本人はなぜ川端などに
ひれ伏すんですか?ほんとに中身はなにもない男です。書で『
誠』なんて書いている、だが中身のまるでない男の『誠』に全
く意味などないですよ、川端のノーベル賞文学賞の受賞はノー
ベル賞のインチキさを実証しただけですよ」

 三島ら楯の会の市ヶ谷乱入は1970年11月25日だった、その年、
何月だったか、2月か3月のように記憶するが、中央公論「日本
の文学」(文学全集)の「稲垣足穂、内田百間、牧野信一」の
巻、月報は三島由紀夫と澁澤龍彦の対談、そこで三島由紀夫は
「ぼくは絶対に稲垣さんに会いたくなく、必ず稲垣さんより早
く死ぬつもりです」

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三島由紀夫が稲垣足穂より25歳は年少であことを思えば非常に
異様な発言であり、この時点で乱入切腹を決意していたことを
示している。さらに、「私が本当にバカなことをやって、世間
から笑いものになる、でも私は稲垣さんだけは分かってくると
思っているんですよ」

 この月報の三島由紀夫の発言内容から、私は三島はなにか
企んでいる、それは自分の死を招く行為で、とんでもない非常
識なものだ、と、無論、その予測は的中したわけであるが。

 その後、週刊文春で稲垣足穂と野坂昭如の対談があった。
1970年の5月が6月、のように記憶する。

 稲垣足穂は「三島由紀夫は来る来るゆうて全然来よらん。わし
に興行師と呼ばれるんが怖いんや」

 さらに「川端なんか千代紙細工や、ツギハギだらけや」

 稲垣足穂の川端康成絶対否定は徹底している。その足穂への
三島の非常な傾倒である。当然、川端否定となって当然だろう。
新潮社な表向き「往復書簡」などを月刊「新潮」に載せたり、
川端と三島の蜜月ぶりを強調し続けた。だがそれはひとえに新
潮社の「川端康成の名声を守る」という死守スべき利益のため
だったということだ。

 あれほど川端を否定する足穂に傾倒する三島、だから川端は
否定していたはずだ。最後は。当然、三島は川端を徹底否定して
いた事は確かだ。

 何よりも川端康成は「代作」作品が極端に多い、「川端先生
の名前で出せるから」と多くの女性作家、作家志望のに少女小
説を書かせた、川端自身が執筆の少女小説は一作もない。だが
一般小説の代作が多すぎる『古都』、『女であること』、『眠
れる美女』、『山の音』、全く代表作と思われている長編が全
て代作なのだ。「名前だけで生きた作家」といえる。さらに自
作も編集が手を入れて、また相当書き直して作品に仕上げたと
云うケースが多い。

 書簡では、三島の書簡で川端評は悪化の一途だった。乱入し
割腹の歳の8月知人あて書簡で川端を「作家呼ぶに値しない」と
明言している。

 代作は多いが、ではあの『雪国』なら本人執筆!だろうと、
皆思うが、これぞ稲垣足穂の云う「川端なんか千代紙細工や」
だ、何本もの雑誌に分散して書かれたという集中を書く作品で
しかなく、まとめても作品の体をなさない、編集の手があまり
入っている!だから川端の受賞直後、三島は『雪国』について
「ツギハギだらけの駄作」と言い切っている、知人への書簡だ。

 川端は戦前は伊藤整、吉屋信子、中里恒子らに作品を書かせ、
戦後は北條誠、沢野久雄、石浜恒夫、・・・・・らが代作して
いた。石浜恒夫はあの大阪の作家、藤沢桓夫の弟で川端に弟子
入りし、鎌倉の家に住み込んだ、そこから生まれるのは当然代
作である。『女であること』は純然たる石浜恒夫の作品である。
川端に書ける作品ではない。沢野久雄は湯川秀樹の『旅人』も
代作している。実際は川端が書いたが、まったく文学作品の
体裁をなさないものが多く、石浜、沢野、北条らが大幅に加筆
訂正していたのでラウ。編集の意向を汲んでである。川端家の
お手伝いさんの証言で北条誠が、川端の原稿を書かされるのを
ぼやいていた、ということだ。

 後年、作詞を行った石浜恒夫はフランク永井「こいさんのラ
ブコール」を作詞、愛すべき自己の作品名を歌詞に入れた。
「こいさん、こいさん、女であること、あー、夢見る」である。

 三島は瑤子夫人でに川端について「あの人は必ず制裁を受け
るよ」と常々云っていたという。

 三島個人は誰よりノーベル賞を望んでいた、本人は1967年
に受賞、を目論んでいたが、・・・・・せっかく羽田空港に
VIPルームを記者会見用に予約していたが結果はゼロだった、落
胆はひどかったというが人づてに落選理由を聞いて呆れたとい
う、「宴のあと」は左翼的人物を描いているから作者も左翼的
なはずだ、ノーベル賞にふさわしくない、・・・・・・ノー
ベル文学賞決定権はそんなレベルの人間にあったのだ、ノーベ
ル章に舞い上がる日本人、愚かな俗物性、だろう、・・・・・。

 代作、他人修正加筆、編集の川端作品が「ノーベル賞」さすが
に三島も川端崇拝など大間違いだと悟ったのは当然だろう、足穂
も事情に通じているから全否定である。三島の足穂熱は上昇の一
途だ「稲垣さんなら分かってくれる、私の愚行を」・・・・・ほ
んとにそうだったのか、ある雑誌に足穂が三島乱入に寄稿してい
るのを知ったが、読んでいない。

 三島自決後、川端は都知事選っで秦野を支援したり、応援の
スピーチは支離滅裂、事務所でもなにかに怯えたように不安な
表情、誰も近寄らなかったという。

 川端は三島の亡霊に怯えるようになった、沢野久雄はその噂
を聞き、川端は三島の亡霊で精神に異常をきたし、自殺すると
予言もしていた。それもこれも川端の内部に疚しいものがあっ
たからであろう。

 

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