大谷晃一『評伝 梶井基次郎』1978,大阪学の泰斗が丹念に描く梶井基次郎

生前、梶井基次郎は無名で作品、たしかに小品ばかりだっ
たにせよ、全く評価もされず認めらなかった。同じく、生前、
石川啄木が無名といって、梶井基次郎と比較の対照にはなら
ない。葬儀には著名人も数多く、といって寂しい葬儀だった
が夏目漱石も朝日新聞絡みも会って参列している。その作品
群も梶井基次郎の及ぶところではない。確かに今、梶井の
作品、『檸檬』、『のんきな患者』、「Kの昇天』などを読ん
でも、・・・・・「これはちょっと・・・」と梶ざるを得な
い。生前は狼藉の限りの乱行が多かったというが、伊藤整の
『若い詩人の肖像』のかなり最後に近い場面にその交際で見
た実際の梶井基次郎が描かれている。伊藤整がどこまで事実
をかているのか分からないが、「桜の木の下には死体が埋ま
っている」・・・・・も出てくる。別に面白いとは思えない
が今日ではえらく有名だ、というのか梶井基次郎がいつの間
にやら「完全な古典的評価」を得た文学者となってしまった。
中村光夫がかなり前だが「現在の若者は梶井基次郎を見な崇拝
拝している。いまこそ小林秀雄(平野謙?)は梶井基次郎論を
書くべきだ」恐るべき出世だと思う。
で、この本、関西学院を出て朝日新聞の大阪文芸部長、つ
いには帝塚山学院大学長にまでなった「大阪学」の泰斗!の
大谷晃一さんの1978年刊行の著書だ。
その年、刊行年の「文芸」5月号に大谷さんは「評伝 梶井
基次郎」の取材方法について述べている。梶井が酔い潰れた
カフェが銀座の「ライオン」だったかどうか、ビフテキを食べ
たのかどうか、それを調べるのもバカらしいようだが、無意味
でもなく、梶井は現実にろくに金もないくせに一流好みだった
ことを裏付けているというのだ。ただのカフェではなく、「ラ
イオン」だったということで事実の「重み」を示す。
で従来は昭和元年、1926年12月31日に伊豆の湯ヶ島に行って、
翌日、湯元館に滞在の川端康成などと初めて逢ったことになっ
ているが、大谷さんはそれは誤りで。その日のうちに川端に会
いに出かけ、翌日、川端の世話で宿を変えたという。
些細なようでも作品は評価されず、焦りに焦っていた梶井の
心模様が分かる。また当時、文芸時評をっ執筆し、新人発掘で
知られていた川端に会うという目的も鮮明になる。「事実その
ままの方法は、刑訴法による犯罪捜査に似ている」そうで、そ
う云われていい気持ちもしないだろう。「可能な限り、事実を
洗い出し、梶井文学の秘密を探る」というスタンスである。
「のんきな患者」が中央公論に掲載され、生前で多少でも評
価された作品だが、すでに病状は悪化していたという。しかし、
その存在は没後、知られ、注目もされていった。ついには堅固
な古典的評価を得た、にしても実質はて?とは思う。どこまで
も心境小説、詩的な文章だろう、半ば散文詩か、想像力を抑え
、対象に自己を投影し、心象を象徴的に語る。感受性は果たし
て研ぎ澄まされていたのかである。
大谷さんはこの本でその象徴主義を解明し、その31年の短い
生涯を丹念に探る。梶井家の先祖、「青空」グループ、文学的
交友、いたって実証的な伝記である。格段に個性的記述はない。
新聞人らしいというのか、野村尚吾さんに似ている部分もある
が、あれほどの作家性は無論ない。
何よりも大阪生まれの大谷さんが、梶井基次郎に深い共感と
同情、世代体験もまじえて「梶井を語ることは、いわば私たち
の青春を語ることだ」という中谷孝雄の回想と重なると思う。
三高時代、左が梶井基次郎、中央が中谷孝雄

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