石川淳『夷斉筆談・夷斎俚言』ちくま文庫、得も言われぬ砕けた文体とヨーロッパ的教養
この本が最初刊行された時期は古く、1952年、昭和27年であり、
文藝春秋新社からでたった。その後、ちくま文芸文庫で出版さ
れていた。稲垣足穂がいう「石川淳はちょっとだけ面白い」な
わけだが、石川淳の文体は実際、めずらしいと思える。意図的
に、砕けてざっくばらんな言葉回しをしているようだ。それは
作為の結果でもなく、要は言文一致だということだ。日本の
文章向けの文体もそれなりに整っていると思うが、話し言葉と
はかけ離れている。だが石川淳は口で話す通りを、どうにでも
つじつまを合わせて書けば、このような砕けた文体となるよう
だ。だから石川淳の文体と坂口安吾の文体はどこか似ている。
とりもなおさず両人の口調が似ている、ということだろうか。
内容だが、評論でも、気取らず書いても誰でも余所行きの文
章になりがちだが、両エッセイとも、時期は筆談が先だが、い
たって気取らぬ放談の雰囲気でラウ。その結果、逆効果という
のかどうか、かえってひねったイメージを与えているかもしれ
ない。砕けてざっっくばらんだが、内容は荒唐無稽でないどこ
ろか、なかなか効果を考えて十分な組み立てだと感じる。
「むかしのはなしになると、どうしても自分が出てきて、い
やになっちゃうね。書き出したものだから、仕方がねえや、書
いちゃおう」という文章で、褒める程でもないが、リズムはあ
る。
内容それ自体は、文体はさておき、高級感がある。そのヨー
ロッパ的な教養が、文化的教養がよく出てる。教養といって、
飛び抜けたものではなく、常識的だろう。だが日本の知的レヴ
ェルからなら十分、高級だろう。それを、その砕けた文体で包
んでいる、そのヨーロッパ敵教養は結構なアクセサリーという
ことだろうか。でも結果として有益な内容となっている。「ジ
ードむかしばなし」今はジッドだが当時はジードである。フラ
ンスのレジスタンスにひっかけて政治問題にもふれ、自分の身
の周りのエピソード、また政治問題にもふれて、当たるを幸い
に、ヨーロッパ的な教養、見識に照らして批判を縦横無尽であ
る。青臭さはない、大人の方言だろう。
「人間はのべつ幕なしに出ずっぱりで外を跳ね回るより、た
まには部屋でじっとしている方が衛生的だね。なに、いつまで
もそこに腰を掛けてはいられないよ、因果なもので、またすぐ
に外の不幸に飛び出していくことになる」、これは「孤独と抵
抗」の結論である。レジスタンス論なのだ。こう読むと、何が
レジスタンスやら分からなくなる。そんな雰囲気だ。
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