江口 渙『続わが文学半世紀』著者の社会主義的人生の思い出、テロリストたちとの約束を本書執筆で果たす
『わが文学半世紀』第一部は、夏目漱石を初めとし、高村
光太郎、芥川龍之介、菊池寛、佐藤春夫、有島武郎、宇野浩二
、久米正雄らの思い出が中心だったが、第二部の「続わが文学
半世紀』はまったくガラリと内容は変わり、著者、江口 渙の
社会主義者としての人生の思い出である。
1920年、大正9年、江口 渙は日本社会主義同盟の発起人と
なり、文学から離れ、無政府主義的な運動に加わるようになっ
た。その日本社会主義同盟も、翌年には
「外部的には警視庁と検察局の少しの緩みをみせない弾圧の
きびしさ、内部的はアナとボルとの対立、無政府主義者対共産
主義者深まるばかりの対立抗争のため、ついには耐えきれず自
発的に解体」
ということだったが、アナ、つまりアナーキズム、無政府主義
者の人々は、テロを唯一の道と信じ、華族や大金持ちとか、銀行
、大会社を脅して金を巻き上げながらテロの機会を伺っていたと
いう。
江口 渙の所に出入りするテロリストの中には、中浜鉄、和田久
太郎、古田大次郎などがいた。彼らはギロチン社という結社を作
り、直接行動の目標を求めていた。いわゆる大逆事件となるよう
な計画も立てたが、関東大震災のドサクサに紛れ、大杉栄、伊藤
野枝、さらには大杉栄の甥っ子の幼い男児まで甘粕大尉指揮下の
憲兵隊に惨殺され、しだいに目標を狭め、大震災当時の戒厳令司
令官、陸軍大将福田雅太郎の暗殺に照準を定めた。
古田はすでに銀行の金を奪おうとしたとき、一人の老銀行員を
殺害し、逆に追い詰められていった。朝鮮に爆弾を入手にいって
もうまく行かず、とうとうダイナマイトを入手し、自ら爆弾を製
造し、実行に向けて進んでいったという。
著者の江口 渙は自分自身では、そのようなテロ行為には参加
しなかったが、テロリストたちに同情し、直接、関節に支援して
いた。江口 渙は「どなん理由にしても、人が人の命を奪っていい
はずはない」という考えを古田大次郎に提示したこともあったと
いう。
江口 渙は徐々に、自分本来の仕事はテロではなく、文学しかな
いと考え直したが官憲の暴虐があまりに激しく。テロリストにも
同情せざるを得なかった。例えばロシアから亡命した盲目の放浪
詩人、エロシェンコを警察が拘禁した際のあまりの暴虐のありさ
まを、詳しく描いている。警官や刑事は、要義者を捉えれば、必
ず散々に暴行を加え、半殺しにしたのだった。
中浜は捕まったが、和田は福田陸軍大将を襲撃し、失敗し、ギ
ロチン社の者たちはみな検挙されてしまった。著者の江口 渙もあ
やうく巻き込まれると寸前だった。だが、短期の勾留で釈放され
た。江口 渙は古田と中浜が死刑に処せられ、また無期懲役の和田
が獄中で自殺するまで、彼らを励まし続けた。
江口 渙はテロリストたちに参加を求められ、断ったとき、それな
ら自分たちが死刑となって消えた後は、自分たちのことを書き残し
てほしい、と頼まれたという。江口はそれを承諾した。だからこの
『続わが文学半世紀』はその約束を果たしたものである。ここまで
あのテロリストを人間性の内部まで踏み込んで描いた文章は他には
ない。あの時代の社会主義運動、無政府主義者たちを描くこの本は、
保守、右翼に染まる現代の日本の感覚からあまりにかけ離れている
が、これほど中浜、古田らを描いた文章は他には見いだせないので
ある。その意味で貴重な本である。
江口 渙
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