尾崎士郎『遠き跫音』1964,尾崎士郎の絶筆、昭和の起点となった関東大震災を追って自らを語る

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 尾崎士郎は1964年2月19日に66歳で亡くなった。その著作は
おびただしく、無論、その質も思えばまさしく文豪であった。
その絶筆となった作品、尾崎士郎は最初は左傾化、その後は右
傾化したというが着地点はどうであったのかだ。

 『遠き跫音」、跫音の跫は難しい字だ。あしおと、とは読む
が。さて東嘉一は苦学して早稲田大学の理工科を卒業、小さな
工場の経営者となった。だが1923年、大正12年9月1日、関東大
震災が発生、東京から横浜、甚大な被害をもたらしたが、その
混乱のさなか、労働運動家、左翼、また朝鮮人が殺害された。
アナーキストの大杉栄は伊藤野枝、幼い甥っ子も含め、憲兵隊
に虐殺された。嘉一の弟、洋次は南葛飾地区で組合運動家など
ともに殺害された。嘉一は弟の仇を打つため私財をなげうち、
共産党に入った。嘉一は警察署の建設に際しても寄付をしたり、
弟の死を確認の際も警察に気に入られた。左翼と云って一筋縄
では行かない存在だった。庶民感情を基本に据える素朴な愛国
者だった。

 嘉一のような人物はドグマ狂信ではなく、より自在なアナーキ
ズムにつながりやすかった。この物語では、共産党の中心的な人
物として活躍するのだ。ガマとあだ名され、若い党員からも親し
まれる。

 この嘉一を中心にして、大正末期から昭和10年代初めまでの
左翼運動の歴史が展開している。尾崎士郎の自伝要素の強く、そ
の歴史観、人生観がいたってさり気なく語られる。左翼小説でも
なく、転向文学でもない、昭和小説というべきだろう。東嘉一は
昭和の象徴として描かれてリウ用だ。

 昭和の始まりは実は大正の関東大震災だ。それ自体は一つの独
立の天変地異だったが、巨大な社会変動を生んだ。その歴史的事
情が見事に描かれる。尾崎士郎ならでは、である。現在の風潮は
全くの反左翼だが、昭和を語るには共産党を語ることは避けられ
ないのだ。10年あまりの共産党の推移、現在は遠く伝説化したよ
うな挿話を組み入れて尾崎士郎独自の構成で小説化している。ま
た甘粕大尉ら右翼軍人、国粋主義者の流れも十分、配慮して語ら
れる。

 昭和の初め、農村の困窮などから若手軍人にファッショ的革新
を志すものが続出した背景を問い詰める。真の要因は?弟の仇討
ちと作者は結論づけるが、これは尾崎士郎にしても不本意のはず
だ。口実にすぎまい。さらに読者で真の原因を探るべき、との
意図が秘められているのかもしれない。尾崎士郎の最後を飾った
作品で人気はないが、文句ない内容だと思える。

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