自分には何も才能がなかった、と悟るのもそれなりの自分探しの旅の到着点

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 「自分探しの旅」とはよく云われる、全く自分が選んだわけ
でない境遇に生まれ、それが普通ならいいとしても、生まれて
みたらゲス極の悪意に満ちた冷酷無比の親と家庭、では、いや
がうえにも自主的な「自分探し」が人生のテーマになるわけで
ある。一度限りの人生、なにか不運、災難に襲われたら、襲わ
れつづけたら災難の生み出す不幸の雨あられえを振り払うだけ、
要するに人生の糊塗に終始してしまう。・・・・・そうなら
るを得ないのだが、不幸の雨を振り払うだけで人生を終わりた
くはないものだ。不運、災難、不幸を超えたところにある、真
の自分を探す旅、それが自分探しの旅、だろうか。

 だが現実は厳しい、凡庸とはよく言うが凡庸にさえ及ばない
自分に打ちのめされることも珍しくはない。もはや雑草の生命
力が要求される。そのような状況であればあるほど、必要とさ
れるものは「夢」である、実際、叶う叶わないは別としても夢
を追うというのは一度の人生の最も重要な要素だと感じる。人
生は夢追い人生と言って過言ではない、無論、生きるとなると
地道で地味な生活信条は重要であるが他方で夢がなければこの
人生を生き抜けるものではない。「夢」の内容はひとそれぞれ、
追い求めるものはジャンルに際限はない。

 しかし、実際、人生はいたって儚くも短い、病身の私があと
奇蹟的に長く生きられても10年?でも過去でいうと、10年前な
ど昨日みたいなものだ、しかも10年など無理というもの、人生
は「まだまだ」と思っているうちに、である。そこで自分に納
得の生き方だったか、と顧みれば正直、無念、慟哭である。さ
すがに歎息セざるを得ない。「結局、自分には何の才能もなか
った」才能とは努力と言うならそうかもしれない、努力の気魄
にも欠けていたわけである。無論、秀でた才能があったとも思
えない、どころか人並みのことも、なら一芸に秀でたか、とな
るとこれも侘しい限りである。

 自分とは何の才能もない人間、それでいいではないか、と素
直に思える自分になってきたようだ。「さぼり屋」は生来のも
の、よくぞ生き抜いた、これだけをもって人生の金メダルとす
べきだと思う。

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