中村草田男『銀河依然』1953,俳句の社会化を問う!だが本当に可能なのか?

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 この本自体は句集だ、中村草田男の戦後の俳句、800首を集
めたものである。古書でなお入手可能だ。時代は終戦直後から
、多少は落ち着いた昭和28年、1953年の初期、朝鮮戦争も終結
している頃だ。

 跋文(後書き)で中村草田男はこう書いている。

 「戦前にはさだかに存在した筈の自己の内外の生活の秩序が
、すでに崩壊し去っているという事実がしたたかに直感された。
意義と価値との拠るべき普遍的基盤が喪失したのである。私は
現在に立脚している。しかも決して拠るべき意義と価値の基盤
を再発見したと言いうることは出来ない。僅かに実々の未来を
招来せしめるために作者として『銀河』を仰ぐが如く彼方に眼
を注ぐべき、その方向の在処を僅かながらにも悟り始めている。
・・・『思想性』、『社会性』とでも命名すべき本来は散文の
性質の要素と純粋な詩的要素とが、第三存在の誕生の方向に向
かって、あいつもつれつも、此処に激しく流動しているに相違
ない」というのだ。

 「第三存在」というのが1946年、雑誌『世界』に掲載された
桑原武夫の『第二芸術論』と重なるような気もするのだが。

 基本は句集のこの本、ではどんな句が、

   松籟も噴水に来て真白に

   冬の白壁雀尾を出せばその尾の影

   荒海や松は肉そげ草は濃く

   二つの唐傘冬の松から青き雨

 これがいかにも著名な俳人の句というほどのものなのか、正気、
夏井さんでもないし、わからない。ただ写生の句は明らかだ。
情緒や感動を盛り込むことは避け、写生の的確さに依存、その結
果として情緒を表現できればというのか、ただ正直、これは素人
の句です、と表示されても実際、誰しもそう思うだろう。桑原武
夫もそれを論難している。明治以降の俳句の流れに沿うものだ。
写生プラス情緒なら上出来というもので、このような写生の流れで
は思想性も人生観もあり得ないだろう。

 だがら、このような素人的な句に飽き足らず

   蝶々横行コールド・ウォーアの中

   虹より上に高みを仰ぐ神あるなり

   昼寝浮浪児一個地上に置かれる

   春昼や教会造営の機械の音


 これで思想性、社会性が本当に表現できたと思ったのだろうか。
たった17文字に季語も入れて、その上に思想性、社会性の問題が
組み込めるはずはない、できると思う人間は相当におかしいと思
う。思想性や社会性自体は俳句には組み込めないはずで、その結
果の感慨が俳句にどう現れるか、だろう。俳句に過剰な負担を押
しつけてはならず、戦争や神、浮浪児、機械までが出てきては、
あまりに滑稽となるのではないか。

 いくさよあるな麦生に金貨天降るとも

 麦生という季語を取り去って、変わりに「この地」をいれても
同じことで、そもそもなぜ季語を、という疑問が湧いてしまう。
これでは第二芸術どころでなく、第三芸術になりかねない。

 洋楽のかすかな酸味四十路終わる

 これなどは「俳句らしい」、ということだろうか。

 戦争の前には、日本には普遍の価値や意義があった、ということ
自体がおかしな話であり、俳句の世界に、そんな普遍的価値があっ
たはずもないような気もする。

 この世の未知の深さ喪に似て柘榴咲く

 なぜ季語の柘榴?俳句にするためだけにである。

 

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