佐田啓二、悲しみの葬儀、あまりに悲運な37歳での交通事故死、小津安二郎への信じられない献身
日本の映画の歴史に燦然と輝く男性俳優、一人挙げろと
いうなら佐田啓二である。端正で落ち着いた折り目正しい
雰囲気、容貌もそれに合致したものだ。私も世代的に映画
の「君の名は」第一部が封切りされた年の生まれで、リア
ルタイムではあまり見ることも出来なかった。実際に、映
画館で上映を見るしかなかった時代だが、あの時代こそは
正しく映画の全盛期だった。最大の娯楽、楽しみは映画、
佐田啓二の晩年末期、といって若いのだが、テレビに侵食
され、映画も斜陽になりかけ、ていたのは事実だ。実際に
映画館で見て非常に印象に残っているのは木下恵介監督の
『喜びも悲しみも幾年月』妻役が高峰秀子、まだ幼かったが
が真夜中、灯台の階段を降りる場面はちょっと怖かった記憶
がある。テレビドラマの出演は少なく、圧倒的に映画である。
映画全盛期をか飾り、さらに、という時点での早すぎる、あ
まりに不運な死だった。
あの年、1964年は東京五輪、10月10日開会式であったが、
東京五輪前にに亡くなった、で印象は8月17日の佐田啓二、
9月21日には三木行治、岡山県知事、日本のガンジーとも異
名をとった名知事であった。
逸話は数多いだろうが、木下恵介、小津安二郎という二人
の巨匠に可愛がられたこと、俳優同士の結婚の多い映画界で
、素人の女性を射止めたこと、その女性は小津安二郎監督を
こよなく敬慕していた。だから佐田家に出入りする小津は、
さながら父親のような存在だっただろう。小津は鎌倉から
東京に出たときは飲んでそのあとしばしば、佐田家に泊まっ
ていたという。
中井貴恵子、佐田の長女を孫のように溺愛していた小津で
あった。貴恵子、現在は中井貴恵だが、小津は「ぼくの恋人」
と吹聴していたくらいだ。
かくして佐田啓二と小津安二郎は親子のような間柄だった。
佐田が事故死の前年、1963年2月、小津は頸部のガンが見つか
った、佐田夫婦は献身的に看病に当たった。小津は二度の入院
生活、小津の病状は厳しく看病は悪戦苦闘、途中、なんとか小
康を得た自宅での生活、その10ヶ月あまり、独身の小津にかく
も献身的な息子と嫁がいた、と周囲の人は疑ったほどだった。
二度目の小津の入院では北鎌倉の小津の自宅から夜中に、山
の上である、から小津という大の男を担架に乘せて松竹大船の
小津組の三名と暗い山道を担いておりた。そんな映画スターが
他にあり得ただろうか。その小津は1963年、12月12日、60歳の
ちょうど誕生日に死去した、几帳面だった小津らしくもあった。
私は世代、年齡、諸般の制約で『喜びも悲しみも幾歳月』し
かみていなかった、現在ならDVDで他の著名な作品も見られる。
長男、中井貴一、長女、中井貴恵、の御活躍はファンには大い
なる慰めとなる。
1964年8月22日、東京、青山葬儀場での佐田啓二の葬儀、
数多くの花輪、盛花が並び、約5000人の会葬者でうずまった。
喪主の佐田益子さん、34歳、
池部良
新珠三千代と淡島千景
山本富士子
フランキー堺
岡田茉莉子
津島恵子
鰐淵晴子
司葉子
菅原謙二
飯田蝶子
「喜びも悲しみも幾歳月』1957,松竹、木下恵介監督
佐田啓二、高峰秀子
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