高木市之助(述)『尋常小学国語読本』1976,文学の鬼と称した国文学者が語る国定教科書の散々な裏事情
もう遥か歴史のかなたに去って、「尋常小学国語読本」とい
って、いかなる内容だったのか、想像もつかない時代となって
久しいが、帯には「生前、自ら文学の鬼と称した国文学者が最
後に遺した懺悔録」とある。1888~1974,この中公新書が出
る二年前に亡くなられていたわけである。
wikiの簡単な記述の略歴を転載すると
上代文学、とりわけ『万葉集』を中心に研究し文学論の確立に努めた。『吉野の鮎』ほか著書多数。校歌の作詞も手がけ、筑紫丘高等学校の校歌は記紀万葉・変体漢文を思わせる全文が漢字のユニークなものである。また、大正期の国定国語読本『尋常小学国語読本』編集の中心となった。
ということである。「尋常小学国語読本」の編集の中心的存在
であった方である。最後の最後に吐露したその体験談がこの本、
貴重な内容だ。
戦前は、小学校の教科書は文部省の編著に拠る全国共通の、
たった一種類の「国定教科書」があるだけだった。この国定
教科書の影響は圧倒的に絶大であり、日本国民をとことん、
精神構造の奥底まで、いい言葉ではないが「洗脳、マインドコ
ントロール」に導いたわけでる。
高木市之助は著名な国文学者であられた。30歳を少し出た頃
から大正9年から2年間、文部省にあって国定教科書の編著を
おこなった。無論、一人でやったわけではないが。その時の、
文部省図書監修官時代の思い出を亡くなる年の春から秋にかけ
て口述されたものである。
熊本の旧制第五高等学校から文部省にスカウトされ、引き抜か
れた高木市之助は、これを新たな仕事と思い、非常に意気込んで
いた。意気揚々と当時、神田一ツ橋の近くにあったというみすぼ
らしい木造二階建ての文部省に出向いた。だが仕事を始めると、
たちどころに失望してしまった。編著者の上には学識経験者、ま
た政界、軍部の代表者等による教科書調査委員会があって、その
中に「わたしの立場から見て、教科書本来の意義を否定するとし
か云いようがないような人物たちが幅を利かせていた」からであ
る。
例えば、まず高木市之助は児童生徒の情熱を鼓舞するという意
図で叙事詩から教材を選びたいと考え、「平家物語」の祇園女御
のくだりを五年生向きに書き改めた。平忠盛が祇園女御のもとに
通う後白河院のお供をしてくせ者を捕らえるという場面だが、こ
の教材案はたちまち、代議士の調査委員会員によって拒絶された。
「こんな教材を国定教科書の入れるのはもってのほかだ、後
白河院は、そのとき、こともあろうに愛妾のもとにお通いにな
るのではないか。おそれおおくも皇室のこのような事実を暴く
のは、教育上、不敬千万である。こんな教材は根こそぎ撤去せ
よ」
高木市之助はその代わりとして文部次官の支持で「選挙ノ日」
という教材を書いたという。その文章の全文を引用した上で、
「この『選挙ノ日』は南次官の間医療的熱意を盛り込むには
適当だったかもしれまsねんが、叙事詩どころか文学性はまっ
たくない」と述べた。
実際、当時の文部省予算は乏しく、教科書執筆のための出張
費用さえ出なかった。南洋や朝鮮の風物についても本で調べ、
想像で高木さんは書いたそうである。国定教科書の裏話だが、
結果としての「国定教科書」が生徒には全くもっておもしろい
興味深いものでなかったという歎きは今も無縁とも云い難いだ
ろう。教科書検定制度の過剰な干渉、圧力は現代の問題であり
続ける。
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